電話は怖い。 電話が鳴る度、いつも身体が「びくっ」と緊張して、鳴り続ける電話が留守電に切り替わり、そこから知らない人の声が聞こえてきたりすると、ぼくはもうパニックで、ガタガタ震えながら、耳をふさいで部屋の隅にうずくまってしまうしかなかったんだけど、ここには普通の電話はないから、安心してられる。 ここにある電話は、まあちゃんが買ってくれた携帯電話一台きりで、これが鳴るのを毛布に包まって待つのがぼくの日課で、これに電話してくるのは、まあちゃんだけだから、この電話はぼくのともだちだ。 それでも、たとえ相手がまあちゃんでも、電話に出て話すのは、ぼくにはとても無理な相談だから、まあちゃんからこの携帯に来るのはいつもメールだけで、それも「帰る」とひと言だけのそっけないメールだけど、その画面を見るだけで、ぼくのココロにはシアワセが満ちてくるんだ。 仕事を終えたまあちゃんから「帰る」のメールが来るとぼくは、かぶってた毛布を畳んで押入れにしまって、部屋の電灯をつけて、ストーブもつけて、寒くて暗い部屋が嫌いなまあちゃんのために、部屋を明るくあったかにして、まあちゃんを待つんだ。 まあちゃんは、「俺がいないときでも、ストーブ使えよ。寒いだろうが。」って言ってくれるけど、ぼくは平気だから、それに部屋にぼく一人しかいないときにはもったいないし、だから毎朝、まあちゃんが出かけたら、ストーブはすぐに消すんだ。 それからぼくは、部屋の掃除して洗濯して、お皿やらコップやら洗って、そしたらその後は、ずっとこうして毛布に包まってれば、全然寒くないし、それに電気つけたりストーブ燃してたら、誰かが訪ねて来そうで怖いし、だから、これがいいんだ。 掃除や、食器洗いや洗濯の仕方とか布団や服の畳み方やなんか全然知らなかったぼくに、「お前、ホントになんも知ンねんだな……」とあきれながら教えてくれたのはまあちゃんだ。そうだ、「もったいない」って言葉も、まあちゃんが教えてくれた。 まあちゃんは、それを全部少年院で教わったと言ってたけど、学校でも教えてくれなかったことを教えてくれる少年院って、「すごいね。」と感心したら、「すごかねえや。」と、まあちゃんは言ったんだった。 まあちゃんの足音はすぐわかる。 ぼくは、ドアまで走って行って鍵をはずす。 ドアが開く。 「おかえり！」 ぼくが言うと、まあちゃんは、「ふにゃっ」と笑って、夕飯の入った袋を差し出すんだ。 「カツ丼。」 「どんどん亭の？」 「うん。豚玉丼は、昨日で終わりだって。」 「ぼく、カツ丼も好き。ツユダク、だよね？」 「ああ、ダク。」 「ぼく、お茶入れるね。ぼく、お湯も、沸かしたよ。」 お茶の入れ方教えてくれたのも、やっぱりまあちゃんだ。 まあちゃんと二人で食べるごはんは、なんでもすごくおいしい。 「まあちゃん。」 「ん？」 「明日も、カツ丼、食べようね。ツユダクで。」 「明日も……か？」 「うん。あさっても。」 「飽きねか？」 「全然。」 「ふーん……、ま、いいけどよ……」 「まあちゃんは、いや？」 「なんでよ？」 「まあちゃん、飽きるなら、なんでもいいよ、ぼく。まあちゃんが買ってくるものなら、なんでもいい。」 だって、ぼくが「好きだ」って言うから、昨日まで十日間は「豚玉丼」だったし、その前は二週間、「四季の彩り丼」で、その前は一ヵ月ずっと、牛丼弁当だったんだ。もちろん、ツユダクだ。 「ツユダク」を教えてくれたのも、まあちゃんだった。ホントは、牛丼でしか使わない言葉らしいけど、白いごはんが嫌いなぼくにまあちゃんは、カツ丼も天丼も親子丼もみんな、ツユダクで買ってきてくれる。 「俺ァ、食いモンなんて腹に入りゃ別段なんでもいんだよ。お前が好きなモン、買ってきてやるさ。」 「でも、明日は、カツ丼じゃなくても、ぼく、いいよ。」 「めんどくせから、カツ丼にする。」 「うん。それだったら、うれしい。まあちゃん……」 「なんだよ？」 「おいしいね！ツユダクで。」 「今日はよ、三軒だけど、七万、いけたよ。」 「七万円！すごいね！」 「……おめ、何泣いてんだよ？」 「だって……だって、まあちゃん、毎日そうやって一生懸命働いてんのに……ぼく……ぼくは……」 「おめ、ほんと、バッカだね……」 「うん……バカだね……」 「バカだァ……。風呂、入るべ。沸いてんだろ？」 「うん！ぼく、沸かしといた！」 「……あ……」 「なに？」 「もう、けろりとしてやんの。」 「うん！けろりとした！」 二人でお風呂入って、狭い浴槽にまあちゃんとくっついて入って、ぼくはとてもしあわせで、お風呂から出たら、二人裸のままでコーラ飲んで、それから二人一緒の布団に入って、まあちゃんと抱き合って、ぼくはとてもしあわせで、ぼくはまあちゃんのチンチン食べてあげて、まあちゃんは、ぼくのチンチン食べてくれて、まあちゃんのチンチンはぼくのなんかよりずっと大きくて、口がいっぱいになるんだけど、まあちゃんは、ぼくをとても気持ち良くしてくれるから、ぼくもまあちゃんに気持ち良くなってもらいたくて、一生懸命食べて、二人、一緒に出して、それから、裸のままで、また抱き合って眠るとき、ぼくは、とてもとてもしあわせだ。 まあちゃんは、まじめな大人だ。 うちにいたあの人は、居間の壁紙が茶色になるくらいタバコ吸って、なにかというとお酒飲んでたけど、まあちゃんは、お酒もタバコもやらない。 一度、「なんで？」と訊ねると、「嫌いだから」と言ってから、いきなり、ぼくを「きっ」と見据えて、 「おめーも、やるなよ。あんなもん。いいな。」 すごく怖い顔した。 まあちゃんの怖い顔見て思わず、何も言えずにただこくこく頷いたけど、もちろん、ぼくだって嫌いだ、あんなもん。 まあちゃんは、お酒も飲まないで煙草も吸わないで、毎朝決まった時間に出て行って、帰って来る時間はまちまちだけど、毎日真面目に一生懸命お金を稼いで帰ってくる。 前は、週に二日か三日くらいしか仕事には行かなかったらしいけど、ぼくと暮らすようになってからは、土曜と日曜以外は毎日仕事に出るようになった。 お金を貯めてるんだそうだ。お金を貯めて、ぼくと二人住む家を買うんだ、って、毎日しゃかりきに稼いでいる。先週、郵便貯金がもうすぐ一千万円になるって、とても嬉しそうに話してくれた。 ぼくは、家なんて欲しくないし、それよりまあちゃんがもっとぼくといてくれる方が嬉しいんだけど、それにこの部屋も、ぼくはとても好きで、すごく気に入ってるから、ここがいいんだけど…… 「バッカ、おめ、アパートは、だめなんだよぉ。チンタイはよ、所詮チンタイなんだよ。大家の都合ですーぐ追い出されちまうしよ。持ち家だとよ、家も土地もぜ〜んぶ俺たちのもんなんだぜ。誰にも文句言われないんだぜ。家賃も払わなくていいしな。な、すげーじゃんか、な。」 まあちゃんは、生れてからずっとアパート暮らしで、何度も追い出された経験があるそうだ。 「やっぱ、おめ、家だよ。自分の家でなくっちゃ……」 そう言われると、時たま、壁越しになんだか音がするたび、隣の部屋の気配をうかがってビクついたりしなくて済む一軒家、しかもそこに住むのはまあちゃんとぼくだけ二人きりなんて、「いいな……」と思うけど、それでもぼくは、引越しの時には、これはもう確実に外に出ないといけないのを考えると、なんだかすごく怖くて憂鬱なんだけど、まあちゃんがあんなに一生懸命なんだから、今は、それはなるたけ考えないようにしてるんだ。 まあちゃんは毎朝、紺のスーツにネクタイ締めて鞄を持って、決まった時間に出かけて行く。身だしなみが大事なんだそうだ。隣の駅までだけど、定期券も持ってる。 「近所じゃ、誰がいつどこで見てるかわかんないかんな。まずは近所に、きちんとした勤め人だって思わせとかないとな。挨拶だって、するんだぜ。近所のおばさんとかにな。おはようございます！って、にこやかによ。」 それから電車に乗って、まあちゃんは車も持ってて、車を使うこともあるけど、たいていは電車で、なるたけ遠い住宅街に向かうんだ。 「場所を毎日変えるてのは、基本だな。それも一日おきに違う県に行くくらい気を使わないとな。ここでズボラする奴ぁ、だめだ。」 なるべく、初めての知らない駅に降りるんだそうだ。 駅からあちこちの家を見ながら歩いて、とりあえずその辺の家のピンポン鳴らすんだ。あ、ピンポン鳴らす前にハンカチ取り出して汗拭くふりしてから、そのハンカチ越しにボタンを押すんだった。 で、中から応えがあったら、「大学書院と申します。本日は、お子様からご両親までご家族皆様で使える、百科事典のご紹介に参りました。」って言うんだ。 「なんで百科事典かっつーとな、イマドキ、誰も買わねぇからなんだ。」 案の定、「要りません」のひと言でドアも開けないで断られると、さっさと次の家に向かう。でも、時たま「はい」なんて、いきなりドア開ける人もいるんで、まあちゃんの鞄の中には、出版社から取り寄せた百科事典のカタログもちゃーんと入ってるし、「大学書院販売代理店 片岡茂」って、名前もなにもかもでたらめだけど住所と電話番号の入った名刺も、いつも持ってるんだ。 「効率で言うとマンションなんだけどな。留守も多いしな……。でも、マンションだと、いざって時に逃げ場がないんだよな……」 だからマンションで、最初にピンポン押した部屋から応答があって、そこの住人と顔を合わせてしまうと、すぐさま階を変えるんだそうだ。 ピンポン押して応答がなかったら、しばらく様子をうかがって、家を観察するんだ。まあちゃんくらいになると、窓やなんかを観察すると、そこの人がすぐに帰って来るかどうか、「なんとなく」わかるらしい。 手袋はめると、ポケットから道具出して鍵を開ける。たいていの鍵はものの十秒で開くそうで、まあちゃんはそのやり方も少年院で教わったらしいんだけど、ほんと、少年院てのはいろんなことを教えてくれるとこだなあと思う。 「でも、鍵が二つ付いてたり、犬がいる家は、即刻退散だな。この仕事は、すばやく静かに、が鉄則だからな。」 すばやく静かに家の中に入ると、現金を探すんだ。電話の近くとか、台所の引き出しの中によくあるらしい。現金以外には目もくれない。 「だってブツじゃ、金に替えるのが、面倒じゃん。」 現金を見つけて、それが十万円だったら中から三万円だけ、五万円だったら二万円だけ、って、全部持っていかないのも「コツ」なんだそうだ。 「そうすっとよ、盗られたことにも気づかない奴、多いんだ。全部持ってきゃ、そりゃ楽だけど、楽しようとか、欲をかいちゃ、だめなんだ。部屋を荒らすのもご法度だな。きちんと元通りにしときゃ、しばらくは泥棒に入られたのも気づかないし、なによりよ、相手に、親切じゃん。“お客様の気持ちになれ”って、昔バイトしたファミレで毎朝バカみたいに言わされて、かったりィ……って思ったけど、でも、ホントなんだよ、それ。」 お金を鞄の集金袋に入れると、玄関の鍵を閉め勝手口から外に出て、マンションだったら入った時の要領で鍵かけて、次の家に移るんだ。 「地道が一番なんだよ。地道に、小さいことから、コツコツやんないとな。」 まあちゃんは、地道にコツコツ、毎日きちんきちんと真面目に泥棒しては、お金を貯めている。 ぼくとまあちゃんが出会ったのも、ぼくがいた家に、まあちゃんが泥棒に入ったときだった。 あの日…… あの人も、それからあの人も勤めに出かけて、ぼくはようやくほっとして二階の部屋で毛布に包まってたんだ。 しばらくまどろんで、そしたら、下で「ピンポ〜ン……」ってチャイムが鳴って、少しびくっとしたけど、いつものように放っておいたら、も一度チャイムが鳴って、毛布を頭まで被った。 チャイムはそれきりで鳴り止んだので、安心してたんだ。そしたら…… いきなり、部屋のドアが開いたんだ。 びっくりした……ってより怖くて恐ろしくて、ぼくは、凍りついたように動けなくて、片手に靴持ってドア開けたまあちゃんも、やっぱりびっくりしたみたいで、二人、ただ黙って見つめ合ってしまったんだ。まるで、時間が止まったようだった。 そのうちに、じっと動かずにぼくを睨み据えたまま、ドアのところに突っ立っていたまあちゃんが、いきなり、かがみ込んだんだ。 「ここの子？」 ぼくは、なんにも言えずに、ただこくこくと頷いた。 「怖い？」 また頷くと、まあちゃんの目が「ニャッ」と笑った。 「怖かねぇよ。ただの泥棒だからさ。」 ぼくは、まだ黙ってた。 「泥棒。わかるかい？強盗じゃない。」 また頷く。こくん。 「きみ、一人？」 こくん。 「そう。じゃさ、しばらくの間、そうやって静かにしてくれてたら、すぐに帰るからさ。な。」 すごく穏やかに、また「ふにゃっ」と笑ったまあちゃんの目を見つめて、ぼくはもう一度「こくん」と頷いた。 「ありがと。」 目で笑ったまあちゃんが、静かにドアを閉めた。 まあちゃんが階段降りて行く気配を聞きながら、しばらくの間じっとしてた。 それから、少し迷ったんだけど、思いきって立ちあがった。 下に降りて行くと、まあちゃんは台所の勝手口から出ようとしてるとこで、ぼくの気配にこちらを振り向いた。 「帰るよ。なんも盗ってないから、心配すんな。……あ、だから通報は、なし、ね。やめてね。」 「泥棒なのに……？なんにも盗らないの？」 「ああ。いつもは現金だけいただいてくんだけど、今日はきみに見つかっちまったから、なし。ここんちじゃ、盗らない。」 「お金なら、あるよ。」 台所の食器戸棚の下の引出しを指差した。そこに、ぼくの入院のためのお金があるのは、知っていた。 まあちゃんが、ぼくから視線外さずに勝手口からゆっくりと移動して、引出しを開けた。 「これ？」 まあちゃんが、中から取り出した銀行の封筒、ぼくに掲げて、ぼくが頷いた。 「なんか、分厚いよ、これ……おわっ……！これ……五十万くらいか入ってるよ。いいのか？」 「うん。」 「そうか……じゃ、ここから、五万だけいただくな。」 「全部持ってっていいよ。」 「や、それは、俺の主義じゃないんだ。俺は、地道な泥棒なんだ。それに、全部持ってくと、泥棒が入ったの、すぐにばれちまう……って、もうばれてんのか……」 まあちゃんが「くくく……」と笑った。 「じゃ、ぼくが盗ったことにする。だから、全部持ってって。」 「全部……か？」 「うん。そのかわり……」 「なに？」 「ぼくを、ここから連れ出してくれない？」 自分でもびっくりした。 ぼくが、初めて会った見ず知らずの大人と話してるなんて……しかも頼み事までしてるなんて…… でも、まあちゃんの、あの「フニャッ」とした笑顔見たとき、なんだかこの人になら頼めそうな気がして、思いきって試してみることにして……正解だった。 「連れ出す……って、この家、出たいの？」 「うん。」 「いくつだ？」 「十六……」 「一人じゃ、出られないのか？」 「……怖いんだ……外が……外の人が……」 「おまえ、学校は？」 「もう……ずっと行ってない……」 「ふぅん……」 「お願い。明日になると、ぼくはシセツに入院させられてしまうんだ……！だから、お願い……します……」 「……入院かァ……そりゃ、いやだよな……で、出てって、どっか行くあて、あるのか？」 「…………」 「そうか……ま、いいや。わかった。じゃ、用意しろよ。」 「……用意って？」 「だからぁ……出てくっても、着の身着のまま……おまえ、それパジャマだろうが。それじゃ、無理だべ。」 慌てて二階へ上がって、大急ぎで着替えた。学校行くとき使ってたバッグに、下着や他の服を適当に詰め込んだ。 「よし。じゃ、行くべ。」 バッグ抱えて下に降りたぼくに、まあちゃんが声かけて、でも、玄関まで来ると足がすくんで、そこからぼくは一歩も進めないんだ。 「どした？行くんだべ？」 「うん……」 「やっぱり、止すか？」 「ううん……」 「どうなんだよ？」 「行きたい……この家を出たいんだ……でも、外へ出るのは……やっぱり、怖い……」 「しょうがねえなあ……あ、そうだ。ガレージの車のキー、あるか？」 「うん。」 居間のいつもの場所にキーはあって、持ってきたそれをまあちゃんに差し出した。 「これ……だけど……」 「そうか。そのキーにさ、番号が刻んであるだろ？何番になってる？」 「……？」 わけわかんないけど、キーの番号読もうとしたそのとき、目の前に何かが閃いた……と思ったら、頭の後ろの方に「かっ」と熱が走て、瞬間、体が動かなくなった。 気が付くと、ぼくは真っ暗闇の中で揺れていた。横たわっている体に、絶えず振動が伝わってくる。 頭がズキズキした。 手足がなにかに絡まって自由にならない……のは、ぼくが毛布に包まっているせいだと、手触りでわかった。それがいつものぼくの毛布だというのは、匂いでわかった。 毛布をはぐって起きあがろうとすると、頭が何かにつかえた。足を伸ばそうとすると、やはりすぐにつかえて、ぼくはなんだかひどく狭いところに押し込められているようだ。 手で辺りを探ってみて、鉄の感触と振動と音から、どうやらぼくは、どうも走る車のトランクにいるんだと、ようやくわかった。 わかったけど、「なんで？」「どうして？」という疑問は解けなくて、ぼくは一体どうなるんだろうかと考えると、なお一層不安は募って、考えれば考えるほど、もう怖くて恐ろしくてたまらなくなって……体がガタガタと震えだして、そうするともう何も考えられなくなってぼくは、体をなるたけ縮込めまん丸になると、頭から毛布を引っかぶって、また寝てしまったんだ。 丸い蛍光灯が見えた。 まぶしくて目を背けると、ぼくが包まってるあのいつもの毛布と、少し毛羽立った畳の目が見えた。 次に気がついたのは、この部屋。まあちゃんのアパートだったんだ。 でもその時は、そんなことわからなくて……ここがどこだなんて皆目見当もつかないし、胸はドキドキするし、これからぼくがどうなるのか……わからないことばっかりで、恐ろしさのあまりに頭がまたズキズキしてきて、ぼくはまた、寝てしまおうと目を閉じたんだ。 と、そのときだ。玄関のドアが勢いよく開いて、まあちゃんが……牛丼の袋手に提げたまあちゃんが、帰って来た。 「あ、気がついた？もう痛くないか？……車、街のコイン駐車場に置いといたよ。キーはマットの下に置いといた。そのうち、警察が見つけて返してくれるだろ。」 ここがまあちゃんの部屋だというのは、そのとき初めてわかったんだ。なんだか「ほっ」と気が抜けた。 ぼくはまあちゃんに、スタンガン……もしもの時に備えて、いつも鞄に入れてあるらしい……を首の頚動脈に当てられ昏倒させられたんだと、これはだいぶ後から聞かされた。 「腹減ったろ？俺もだ。牛丼だけど、いいか？」 手にした袋差し出して、まあちゃんが「ニャッ」と笑った。 初めて食べた牛丼は、とてもおいしくって、それからぼくは、ずっとここにいるんだ。 今日もぼくは、まあちゃんの帰りを……「帰る」ってメールを待ちながら、部屋の隅で毛布を被って、じっと息を潜めるんだ。 待ってる間に、いろんなことを空想する。 ここへ来てから、前みたいに何かを空想すると、怖いことばかりを考えてしまうなんてこともなくなった。この部屋はぼくにとって、温かい繭みたいな部屋なんだ。 電話のコールが鳴った。 いつもより随分早い。 今日はまあちゃん、早く切り上げたのかな？と思って一瞬喜んだんだけど、いつものように１回だけで鳴り止まないで、コールが、何度も何度も続く。 なんだこれ……？どうしたんだ……？ 思わず毛布を引っかぶったけど、コールは鳴り止まない。 「……ぴるるるるる、ぴるるるるる、ぴるるるるる……」 いつまでも鳴ってる電話に、心臓はバクバク言い出すし、頭もクラクラして、なんだか吐き気まで催してきた……電話は相変わらず鳴り続けている。 でも、この電話にかけてくるのは、まあちゃんだけのはずだから…… 恐る恐る画面を覗きこむと、やっぱりまあちゃんからだ。 どうしよう……？どうしよう……？どうしたらいいんだ……？ 震える手で電話を押さえつけた。 喉がカラカラに乾いて、口の中が妙に粘つく。 取り上げた電話は、ぼくの手の中で、赤いランプを忙しく点滅させながら、まるで生き物みたいに鳴きつづけている。また吐き気がしてきた。 「出なくっちゃ……まあちゃんだから、大丈夫……電話に出なくっちゃ……」 必死で自分に言い聞かせて、電話をなるたけ体から話して……受信ボタンを、ようやく押せた。 「……ヒロシ……！」 やっぱり、まあちゃんだった。少しホッとした。深呼吸しながら、まだ震えの止まらない手で、電話を耳に押し当てた。 「……ヒロシ……！いるのか……？聞いてるのか……？……ヒロシ……」 「ま、まあちゃん……いるよ。ぼくだよ……」 「あ……ひろし、た、大変だ……」 まあちゃんの声が上ずっている。ひどく慌ててる様子だ。 何かあったんだ……！ 心臓が、またバクバクとあえぎ出した。 「ど、どうしたの？まあちゃん、何が……？」 「あ、ああ……死んだよ……！死んでんだ！いきなり女が……俺が……」 「ま、まあちゃん！落ち着いて！お願い！今どこ？どこにいるの？」 パニくってしどろもどろのまあちゃんの説明聞いて電話を切ったけど、心臓は前にも増してバクバクで、喉がひりひりしてきた。 大変だ……！ 電話を握ったまま、どうしたらいいのかわからなくなって、しばらく呆然としてたんだけど、ぼくは、立ちあがったんだ。膝が、がくがくと震えていたけど、なんとか立ちあがることができたんだ。 まあちゃんが、「何かあったらこれ使え」と言ってたお金を、本棚の缶から出してポケットにねじ込んだ。 それからぼくは、靴を履いたんだ。 ドアを開けて外に出ようとしたんだけど、手が震えて、うまくノブを回せない。 「あっ」と気づいて、靴のまま部屋をいざって歩き、畳の上に放り出してあった携帯電話を拾い上げて、これもポケットにねじ込んだ。 そして、またドアの所で、大きな深呼吸を何度かしてから、ぼくは、ドアを開けたんだ。 まあちゃんに教えられた駅で降りると、駅前にちょうどコンビニがあった。 なるたけ詳しい地図を選んで開いた。電車の中で暗記してきた所番地を探して、道順をしっかりと頭に叩き込んだ。 軍手を買ってコンビニ出てから、少し迷ったけど、十分ほどでその家に着いた。表札も間違いない。 ポケットの電話を取り出して、着信番号に発信した。 「まあちゃん……？」 「ヒロシか？今、開ける。」 良かった。まあちゃん、さっきに比べてだいぶ落ち着いてる。 髪が茶色な、若い女の人だった。 廊下に長々と、裸でひっくり返っていた。見開いた目には、黒目がなくて真っ白だった。 まあちゃんが留守だと思って入った家で、いきなりこの人が、風呂場から裸で出て来たんだ。いきなり叫んだこの人の口を、まあちゃんが押さえこんで床に組み伏せ、ぼくのときみたいにスタンガンで昏倒させようとしたところが、この人が暴れるもんだから、心臓を直撃してしまったんだ。裸で、しかも体が濡れてたのもいけなかったんだと思う。左のおっぱいの辺りが、黒く焦げてた。 「……ドジった……マズったよ……」 まあちゃんが、死体を見下ろしながらつぶやいた。 「まあちゃん……大丈夫……まだ大丈夫だよ、まあちゃん。この人には、しばらく家からいなくなってもらうことにしよう。」 「え……？」 「ちょっと、待ってて……」 台所を探した。あった。案の定、床に四角い切り込みがある。うちにあったのと同じだ。 床に四角に切られた蓋を持ち上げると、プラスチックのケースに、醤油やら酒やらが入っていた。そのプラスチック・ケースも、中身ごと持ち上げて引っこ抜くと、床下の、裸の地面が見えた。 廊下に取って返して、女の人の足を持ち上げた。 「まあちゃん、そっち持って……」 裸の女の人の足を、両脇に抱え込んでまあちゃんに言った。 「お……おう……」 まあちゃんが両腋から手を差し込んで、二人で女の人を持ち上げた。 なんだか、おかしい。思わず「くくっ……」と笑ってしまった。 「どしたんだよ？」 「え……？ううん……」 だって、いつもと逆に、ぼくがまあちゃんにあれこれ指図してるなんて……やっぱり、おかしいや。 女の人は、グニャグニャしてて、すごく運びづらかった。 足の付け根の陰毛の中に、赤黒いビラビラがパックリ口を開けてる。 「まあちゃん……」 「なに？」 「それ……」 顎でそこを指した。 「……気持ち悪いね……」 「……だろ。」 「なんだか、汚いね……」 「だろ。」 「この人が、死んでるから？」 「生きてても、そんなもんだ。」 「……やだね……」 「だろ。」 台所の穴から、死体を床下に押し込んだ。 「でもよ……いずれ、見つかるぜ、これ……」 「いいんだよ。とりあえず、一週間ほど見つからずにいてくれたら。だって、ぼくたちは、今日、ここには来なかったんだもん。」 「なるほど……」 まあちゃんが、プラスチックのケースをはめ込もうとするのを、「ちょっと待って」と押しとどめた。 「いなくなるのに、下着も洋服もお金も、なんにも持たずに、裸の体ひとつだけでいなくなるのは、変じゃない？」 「そうだな。」 風呂場に脱ぎ散らしてあった洋服を、死体のそばに丸めて放りこんだ。この人の部屋を探して……すぐにわかった……そこのクローゼットにあった大きなバッグに、箪笥から適当に取り出した洋服やら下着詰めて、机の上にあったハンドバッグには、財布と、携帯電話も電源切ってから詰めこんだ。 「……あ……靴……！」 「だな……」 まあちゃんが、玄関から赤いパンプスと底の分厚い銀色のブーツ持ってきた。 「これだろ、多分。どっちかわかんねから、両方入れちまえ。しかし、派手だよな……」 そんなこんなを、同じ床下に放りこんで、醤油やらお酒やらの入ったままのケースをはめ込み、蓋を閉めた。 それから、まあちゃんと二人、あちこち点検しながら掃除してまわった。まあちゃんが目顔で頷いて、ぼくも頷き返して、手袋と軍手の手でハイタッチした。 「ＯＫ！」 勝手口から外へ……人目がないのを見計らって、出た。 大きな通りに出るまで、二人黙って、できるだけゆっくり歩いた。 駅が見えたところで、まあちゃんが「ほっ」と息を吐くのがわかった。 「ねえ、まあちゃん……」 「ん？」 「ぼく、外へ出られたよ……」 「……あ……！」 立ち止まったまあちゃんが、まじまじとぼくを見つめて、ぼくも立ち止まった。 「ぼく、電車に乗ってここまで、一人で来たよ。最初、怖かったけど、もう、平気だよ。」 「吐き気、大丈夫だったか？気分、悪くならないか？」 「うん。もう平気。」 まあちゃんが「ふにゃっ」と笑った。 「ヒロシ……」 「だからさ、まあちゃん……」 「何？」 「ぼく、まあちゃんと一緒に、泥棒もできるよ。だから、教えて。」 「うん……でもな……」 まあちゃんの顔が曇った。 「何？」 「泥棒はな……やっぱり、割に合わねや……今日みたいなことがあるとな……」 「じゃ、泥棒、やめるの？」 「うん。そうだ。やめよう。泥棒はやめだ。で、な……」 「うん、何？」 「うん。前から考えてたんだけどな、盗聴屋、やろうと思うんだ。」 「盗聴……屋……？」 「そう。アンテナ立てた車……見掛け倒しでいいんだ……それに受信機積んでな。どこでもいいから人んちの前に乗りつけて、お宅に盗聴器がしかけられてます、って、で、上がりこんで、受信機あちこちの部屋にかざしてから、あらかじめ用意しといた盗聴器、こっそり取り出してさ、ほら、ありました……ってな。」 「……それから、お金、盗るの……？」 「バッカ、盗らねえよ。きちんと謝礼で頂くんだよ。ありがとうございます、ってな。合法だから、堂々としたもんよ。」 「堂々！」 「そう、堂々と。」 「いいね！」 「ああ。これはな、一人より二人組の方が信用もされるし、いいんだよ。こんなスーツじゃなくて、今度は作業服なんか着ちゃってな。」 「ぼくと二人？」 「ああ、おまえは助手ってわけだ。できるか？」 「やる！」 「明日から、準備しよう。」 「まあちゃん！」 「おう。」 「やろうね！」 「ああ、やろうぜ。」 いつのまにか日が落ちていて、街灯が、ぼくとまあちゃんの影を長く伸ばしていた。 「ヒロシ……」 「何？まあちゃん。」 「腹、減ったな。」 「うん。腹減った。」 「お前もそうやって外に出られたしさ、転職の前祝に、なんかうまいモン食って帰るか？」 「うん。食う！」 「特盛りに、味噌汁、卵、サラダにお新香に海苔なんかもつけちゃったりするか？」 「卵は、温タマがいい。」 「そうだったな。おまえ、生卵、だめだもんな。」 「うん。それで、もちろん、ツユダクだよね？」 「ああ。ツユダクだ！」 「行こう。」 「行こうぜ。」 まあちゃんとぼく、手をつないで歩いた。 灯りの灯った駅の前に、ひと際明るく、黄色い看板が光っているのが見えてきた。（了） |
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