「あなた、降りましょう。」 唐突に妻が言った。 電車は須磨駅にとまっている。 「どうした？気分でも悪いのか？」 「ううん。でも、いいじゃない。急いで帰らなきゃいけないわけもないし。久しぶりだから、寄り道しましょう。」 さっさと先に立って戸口に向かった妻を、引き出物が入った式場の紙袋を慌てて網棚から降ろした私が追った。 須磨駅は海浜の駅だ。 跨線橋の改札を出て南側の階段を降りると、そこはもう砂浜だ。 街の灯りが近いこの浜辺は、夜なおほの明るく、黒い波が打ち寄せては白く砕けている波打ち際も、はっきりと見える。 右手の沖合いには、真っ黒な塊に見える淡路島へ渡る橋の灯りが連なって、その島の灯が、沖に行き交う船の灯や大阪湾を挟んだ紀伊半島の灯と鐶になって、ゆらゆらと揺れていた。 「ああ、気持ちいい風……」 夜の海に向かって深呼吸しながら、妻が言った。 「どうしたんだよ？一体……」 「ううん。別にどうもしない。ちょっと、歩いてみたくなっただけ。……いや？」 「……いやじゃないけど……相変わらず唐突だな……」 「だって、久しぶりなんだもん。」 いたずらっぽく笑った妻が、腕をからめて私の肩に凭れかかった。 「いい結婚式だったわね……」 「ああ。君も来てくれたしな……」 人気のない海岸を、街の明るみを背に黒く見える松林に向かって、二人、歩いた。足元の砂が、さくさくと音をたてる。十月の、海から吹いてくる潮風が、酔いで少しほてった顔に心地よい。 「あなたのね……」 「なに？」 「モーニング姿、素敵だった。」 「普通、母親ったら、娘の花嫁姿を誉めるんじゃないの？」 「あの子は、わたしの娘だもん。そりゃきれいに決まってるでしょ。」 「自信だね。」 「そう。当たり前だもん。でもわたし、あなたの正装って、わたしたちの結婚式以来だったんだもん。見たの。」 「歳とったよ……」 「でも、素敵。」 「君は、変わらんね。」 「もしかして、皮肉？」 「いや。きれいだよ。君は、ずっと。」 「あらあら、今日は大サービスだこと……あら……？」 妻が目をやった先には、松林を背に海を向いて、貝殻を模した天蓋付きのベンチがあって、その中では今しも、黒い人影が二つ、私達が横を通るのも気づかない風で、熱烈な抱擁を交わしていた。私を横目で見た妻の目が、茶目っ気に笑った。 「覚えてる？ここ。」 先ほどのアベックから少し離れたベンチに腰を降ろすと、唐突にまた妻が言った。 「ここ……って？」 「ほらァ、このベンチ！」 「なに……？」 「やだなあ……忘れちゃったの？このベンチじゃない。」 「だから……？なに？」 「もう……！あなたがわたしにプロポーズしたベンチじゃない。ここが！」 「あ……そうだっけ……そうだったっけな……」 「ひどいな。覚えてないの？」 「いや……覚えてる。覚えてるよもちろん、そのことは。三〇年前だけど……でも、これ……このベンチなのか？ホントに？」 「そう。わたし、ちゃ〜んと覚えてるもの。赤灯台から数えて五つ目のベンチ。ここよ。」 「よく覚えてるな、そんなことまで……あ、だから？今日……」 「いいでしょ。たまに思い出に浸ってみるのも。」 「……うん、悪かない。……いろいろあったからな……」 遠い沖の方から、「ぼぉーー」という船の汽笛が響いた。背後の松林のせいか、そのすぐ裏側を、ひっきりなしに行き交っているはずの車や電車の音も、かすかな地鳴りのようにしか、ここには届かない。波の音ばかりが、繰り返している。 「煙草、ある？」 じっと海の方を見つめていた妻が、右手を差し出した。 「やめたんだ。」 「あら？いつから？」 「三年になる……あいつが、うるさくて……」 「そう。あの子、子供のころから潔癖症の気味はあったものね……でも、わたしがいくら言ってもやめなかったくせに。」 「そりゃ……君の場合は、自分だってパカパカ吸ってるくせに、俺にばかりやめろ、やめろ、だったもの。説得力が違う。」 「わたしだって、あなたの体を心配して言ってたのよ。あなた、ゴホゴホ咳き込みながら、それでもまだのべつ吸うんだもの。」 「でも、また吸っちまいそうだな……」 「よしなさい。せっかくやめたんだから。……あなた、大丈夫？明日から一人で？」 「ああ、慣れてるもの。今までだって、あいつと二人、夕食だって洗濯だって、どっちか帰りが早い方がやってたし、その当番が、ずっと俺になるだけだもの。」 「あなた、昔からこまめだったものね……でも……一人になるって、そればっかりじゃないのよ。誰か、いないの？いい人。」 「いないよ。こんなオッサンに付き合ってくれる人なんて。」 「……もしかして、わたしに遠慮してんなら、いいのよ、ホントに。」 「そんなことは……いや、ホントのこと言うと……」 「なに？」 「君が……こうして、ずっといてくれるんなら……」 私を見つめていた妻の目がついと逸れて、また海に向いた。 「……できないことを、無理なことを、押しつけないで……」 「すまない……でも、今日は嬉しかったよ……来てくれて……」 遥か対岸の空港に今しも着陸しようとしている飛行機か、夜空を斜めに切り裂くように、灯りが点滅して走った。 群青の空に散らばった星が、弱々しく瞬いている。辺りに聞こえるのは、相変わらず波の音ばかりだ。 「さて、と……」 立ちあがった妻が、私に向き直って笑った。 「そろそろ、帰らなきゃ。」 「そうだな。」 私も立ちあがり、引き出物の紙袋を手に提げた。 「じゃ、あなた、わたし、帰るから。」 「え？帰る……って？今日は泊まってくんじゃないのか？」 「それは、できない……だめなの。」 「そうか……」 がっくりと肩を落とした私に近寄った妻が、私の手を取って、耳元に口を寄せた。 「し・あ・わ・せ、に、ならないと、だめよ。」 思わず抱きしめた妻の体は、思いの外軽くて、腕にますます力を込めた。 「行くな。行かないでくれ……」 片手に持った紙袋が砂の上に落ちて、がざっと耳障りな音をたてた。 「思うけど……あなた……やっぱり、誰かいい人見つけた方がいいわ……」 私の手を振り解いた妻の目が、また茶目っ気に笑った。 「そういうのは……もう、メンドくさいよ……」 「ほォら、本音が出た。」 ころころと笑う妻の声が、夜の海岸に響く。 「いや……だから……」 「いいのよ。でも、だめよ。枯れたりしたら。人間なんて生臭くなきゃ、生きてる価値なんかないんだから。」 「君が言うと重みがあるな……」 「でしょ！」 妻が、また笑った。 「じゃ、わたし、行くわね。」 笑いながら私に向かって手を振る妻を、思わず呼びとめていた。 「あ……また……来てくれるんだろ？」 「うん。気が向いたらね。」 「気まぐれも、相変わらずなんだな……」 「知ってるじゃない。」 笑顔のままで振り向いて、もう一度私に手を振ると妻は、砂浜を海に向かって歩いて、波打ち際に差し掛かった辺りで、「ふっ」とその姿が消えた。 後には、波ばかりが夜の浜辺に打ち寄せている。 ついさきほどの妻の笑い声が、ふいにまたどこからか聞こえたような気がした。 しばらくその場に、じっと立ち尽くしていた。 空には幾ばくかの星が、対岸の灯りと同じように弱々しく瞬いている。 手を、先ほど妻を抱きしめたはずの手を、じっと見つめてから、足元に落ちた紙袋を拾い上げ、私は、松林を街の方に向かってのろのろと歩き出した。 ふと立ち止まってもう一度、海の方を眺めると、そこにはやはり、波ばかりしかないのだった。 どこかでもう一度、酒を飲んでから帰ろう、と思った。（了） |
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