文芸からす
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月が出てる。満月だ。 　巨人は今夜、ゲーム、やってるのかな？今日は、何曜日だっけ？誰か、教えてよ。 　ぼくは…… 　ここへ来て、何日経ったのか、それすら、もう、わからない。 　一体全体、なんだって言うんだ。ぼくが何をしたって言うんだ。なんで、なんの為に、ぼくがこんな目に遇わなきゃならない！ 　どうして！この、この、ぼくがだ！ 　「お医者先生ともなるとよォ、さぞかし、ご幼少の砌から頭がよくてあそばして、さぞかし、お勉強もお出来あそばしたんでございましょうよ、なァ、おい！」 　あの刑事だ。あいつはそう言って、汚い歯を剥き出しに、せせら笑いやがったんだ。ぼくは許さない。そういう侮辱は、絶対許さない。 　ああ、そうさ、その通りさ。一人息子のぼくは、両親の、とりわけ母さんの期待を一身に受けて育ったさ。でも、人の数倍努力してきた。それこそ子供の時からだ。小学生の時には、もう医師になるって、決めてたんだ。過労でぶっ倒れるまで勉強したよ。あんたらにできるかい？ 　ずっと、国立医学部一本だ。一浪した末に合格したときは、母さん、泣いて喜んでくれた。「ありがとう、ありがとう」って、ぼくに何度も言ってくれたよ。 　「私たちがだらしないばっかりに、お前に苦労ばかりかけて……、すまないね、ごめんね。」って、母さん、いつもぼくには謝ってたんだ。 　親父はデクノボーの安サラリーマンだったからね、私立なんて余裕はなかったんだ。 　え、親父？……まあ、うれしかったのか、どうだか……、ぼくの合格を母さんからの電話で聞いたその晩は、珍しく酔って帰って来てたな。 　……知らないよ！親父がなに考えてたかなんて……。 　大学へ入っても、周りの奴ら、病院長の息子や金持ちのボンボンたちが、コンパだ車だ女の子だって、騒いでるのを尻目に、ずっと、研究室と図書館に閉じこもってたよ。インターンを終えて医局勤務になるまで、ろくに女の子と話したこともなかったよ。 　ぼくは、根っからのエリートじゃない。人の何倍も努力して、戦って、勝ち抜いて、ここまで昇りつめたんだ。そうやって雑草の群れから抜け出したんだ。それを…！ 　……そうだろ？そうだよね、母さん……。 　月が出てるよ。満月だよ、母さん。そうだ、ここを出たら、また母さんとお月見をしよう。久しぶりだよね……。 　ぼくが結婚するまで、我が家の恒例行事だったものね。母さんの作る月餅が、クルミの一杯入ったあれが、ぼくは大好きだった。 　……あ、ごめんよ、母さん、そんなつもりで言ったんじゃないんだ……。母さん、その体じゃ、もう料理なんて、無理だもんね……。 　外科のモリ先生がね、おいしい店教えてくれたんだ。そこで買ってくるよ。そりゃ、そうさ、もちろん、母さんの手作りにはかなわないよ。 　これまでは、フミコがうるさかったけど、もう、あいつもいないし……。あ、そうだった、親父ももういないんだっけ、本当に、もう母さんと二人きりだ。 　そうだよ。また、一緒に暮らそう。二人きり、お月見して、月餅を食べよう。お酒も飲もう。母さんだって、少しは飲めるよね。 　そうだ。フミコだ。あいつのせいだ。 　そもそも、あいつさえ居なきゃ、ぼくがこんな目に遇うこともなかったんだ。あんなバカだと、最初からわかってたら、結婚なんてしなかった。母さんの言うとおりだったよ。　ごめんよ、ぼくあの時、母さんの言うこと聞かなくて…… 　なんの取り柄もない高卒の田舎娘が、ぼくに出会ったおかげで「お医者の奥さん」になれたんだ。それだけでも、身に余る光栄ってもんだろう。 　だいたい、病院の事務員って仕事だって、そのために…、あわよくば、ってつもりで選んだんだろうが。お前は自分でそう言ったよな。冗談めかしていたけど、あれは本音だ。そうだろ。 　だからこそ、最初の時だって、お前から誘ったんだろ。あの頃のぼくは、自分から女の人に声をかけるなんて、とてもできなかったからね。 　それを…… 　なんだよ一体。 　結婚したとたんに、夫婦の会話がないだの、ぼくのことを自分勝手だの、あげくの果てにはマザコンだと！実の母親を大切に思って、何が悪いんだ。 　三五歳で家も建てた。行きたいって言うから、カルチャーセンターやらテニススクールだのにも通わせてやった。買い物に不便だって言うから、車だってもう一台買ってやった。それで、なんの不満があるんだ。 　ユウスケのことだって、休みの日には、遊園地や、バーベキューや、海にだって連れて行ってやったじゃないか。これ以上、ぼくにどうしろって言うんだ。 　近所の奥さん連中だって、ぼくのことを、「如才がなくて、子煩悩ないいパパ」って言ってたぞ。知ってんだぞ、ぼくは。 　病院でだって、ぼくは……、内科部長だからね、医局の同僚や院長はもちろんだけど、ぼくは、患者さんたちからだって、とても信頼されてるし、頼りにされてんだ。 　ナースの佐伯クンがそう言って、そっと耳打ちしてくれたよ。 　そのぼくの、どこが「実がない」んだ。どこを指して「エゴイスト」なんて言葉が出てくるんだ。ぼくはいつも、お前やユウスケのことを考えて、おまえたちの為に、働いてきたし、お前達に感謝されこそすれ、恨まれる筋合いなんて、これっぽっちもないぞ。 　そんなぼくがあるのも、みんな母さんのおかげじゃないか。母さんが、ぼくを生んでくれなきゃ、お前達の今の生活だってなかったんだぞ。なんで……、なんで、それがわからないんだ。そんな母さんの悪口を、なんで口にできるんだよ？しかも、当のぼくに向かって。 　あの夜もそうだった。病院から帰ると、まだ靴も脱いでないぼくに向かって、あいつは散々な言葉を投げかけたんだ。 　理由は……、なんだっけ……、もう、忘れた。 　どうせ些細な事だったんだろう。 　いつもは、しばらく放っときゃ納まってたんだ。だからぼくだって我慢出来た。でも、あの日のフミコは嫌に執拗だった。ぼくが風呂から出た後も、食事中も、ずっとぼくをなじり続けたんだ。 　おかげで、ナイター中継に全然集中できなかった。せっかく早く帰れて楽しみにしてたのに。その日勝つと、巨人は単独二位で、首位に二ゲーム差って言う大事な試合だったのに。 　それを、お前は、僕が「冷たい」だの、「自分の事しか考えない」だの、「外面ばかり」だのって、延々なじり続けて、あげくに、佐伯クンとのことまで持ち出した。何年前の話だよ。そりゃ、ぼくは佐伯クンと何度かセックスしたよ。だって、あの頃おまえは妊娠中で、セックスできなかったんだから、仕様がないじゃないか。 　フミコのぼくに対する罵倒はまだ続いて、ぼくはだんだん、苛々してきたんだ。ぼくは今日一日働いて、疲れてるんだ。ナイターだって見たいんだ。いい加減にしろよな。 　そのうちに、あいつはまた、母さんの事を口汚く罵り始めた。 　気が付いたらフミコは、ぼくの足元に白目を向いて引っ繰り返ってた。電話のコードを握り締めてるぼくの手は真白で、そいつを放そうとするんだけど、拳が石のように固まって、どうしても開かないんだ。 　しまった、殺しちゃったよ。やばいよ。 　と思ったのは覚えてる。 　でも、次の瞬間には、ユースケの枕元に立っていた。ユウスケは、あいつがあんなに大騒ぎしてたのに、何事もなかったように、いつものようにうつ伏せになって、ぐっすり眠り込んでた。その首に、コードを巻き付けて絞めたら、声も出さないで事切れた。 　楽に死なせてやったと思うよ。 　なんで子供まで、ってあの刑事も言ってたよ。でも、そうじゃないか。母親がいなくなって、ぼくには仕事もあるし、それよりなにより、ぼくには子育てなんてできないし、それじゃ、あんまりユウスケが不憫だろう。 　それだったら、生きてつらい目を見るよりは、死んじゃった方が、あの子自身のためじゃないか。そうだろ。 　そういう道理が、どうしてあの刑事にはわからないんだろう。頭が悪いんだな。物事を、自分の価値観でしか判断できないんだ。 　ぼくはこの後、検事の取り調べを受けるらしい。ほっとしてる。検事なら、そのことをわかってくれるに違いないもの。だって、あの人たちは、難関の試験を突破してきたあの人たちなら、ぼくと同類の人間だからね、多分……。 　フミコとユウスケの遺体は、山に埋めた。いつか皆でバーベキューに行った山だ。じかに埋めたりなんかしない。二人とも、ちゃんと毛布に包んでやった。一緒に花も埋めてやった。埋め終わってから、ちゃんと手も合わせてきた。 　きちんと、弔ってあげた。だから、帰りの車じゃ、なんだか気分が晴れ晴れとしてたな。 　あいつの実家や近所の人には、子供を連れていなくなった、と言っといた。警察に捜索願いも出した。 　病院を五日間休んで復帰すると、皆がぼくのこと心配して、同情してくれた。警察じゃ、誘拐と失踪両面から捜査してる、って言うと、佐伯クンなんか、涙浮かべて「先生、かわいそう……」って、言ってくれた。 　それからのぼくは、以前に増して仕事に打ち込んだ。なんだか、毎日がすごく充実してた。 　そしてぼくはついに、自分があいつらを死なせたことなんて、もうすっかり忘れてたんだ。 　あのイノシシさえ、あそこを掘り返したりしなきゃ……。 　「Ｎシステム」って……、なんだよ、それ？聞いてないよ…… 　親父のことは、昨日聞いた。やっぱり、自殺だったらしいね。ふん、まったく、あの親父らしいよ。 　多分、それで初めてぼくに勝った気でいるんだろう。おあいにくさま。あんたは、所詮負け犬だ。 　ぼくは知ってるぞ。あんた、ずっとぼくに嫉妬してたね。母さんはぼくに夢中で、あんたのことなんて振り向きもしやしない。 　ウダツのあがらない安サラリーマンのあんたをとっとと追い抜いて、息子のぼくは医者になっちまう。 　そんなぼくが犯した罪を、自分が死んで世間に侘びることで、初めて僕に対して優位に立てると思った。おおかた、そんなとこだろう。度し難いバカだね。 　あんたは、負けっ放しで死んだんだよ。 　だって、そうじゃないか。ぼくは、罪なんてこれっぽっちも犯しちゃいないんだもの。 　確かに、フミコとユウスケは死んだ。でも、あれは一種の事故だって、裁判になれば分ってもらえる、必ずね。なんなら、ぼくが自分でそのことを陳述してもいい。頭のいい裁判官なら、きっと理解してくれるさ。 　それよりなにより、ぼくはこんなとこにいちゃいけない人間なんだ。ぼくを必要とする人たちが、外にはいっぱい待ってるんだ。ぼくは、ここを出なきゃいけないんだ、一刻も早く。 　そうだ、母さんだって待ってる。 　母さんにこそ、ぼくがいてやらなきゃ駄目なんだ。早く行ってやらなきゃ…… 　ああっ……！早く出して！ここから出してくれ！じゃないと、母さん、また鼠に食われちゃうよ！ 　母さん、ごめんよ。母さんに、あんな鼠がでるような、古いボロアパートしか借りてやれなくて。 　ぼく、ここを出たら、真っ先に母さんのことを、あのアパートから連れ出して、一緒に帰るよ。もう誰にも邪魔させないし、遠慮もいらないから、一緒に暮らそう。 　だから母さん、待ってて。もうじきだから。　ぼくのうちに来れば、指を鼠に齧られるなんてことも、もうなくなるからね。 　母さんは、ずっと、きれいなままで、ぼくが死ぬまで面倒をみてあげる。 　そうだ、樹脂を血管に流し込んで、体をそのままに保存する方法もあるらしいよ。ぼく、ここにいるうちに勉強しとくよ。そしたら、母さん、あんなに狭苦しいホルマリンのプールなんかに居なくてすむものね。そうだ、そうしようよ、母さん。 　あ、もう、月が見えなくなった。今、何時なんだろう。 　巨人は？…巨人は、どうなった？もう、首位に立ったのかい？ねぇ、誰か、教えてくれよ。　　　　　　　　　　　　　　　（了）

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