烏書房（連載）

小説

小さなおとなたち

流己睦（りゅうこ・むつみ）

またの名を「むつみん」。元・（誰でも知ってる有名なお店の）書店員にして、情熱サイト「竜巻風堂（たつまきどう）主催者。時々、金欠娘。

おおおおっ！
こ、これは……
「文芸からす」では
「初めて」の
らぶろまんす
ではないのか……!?

　いつもは通りすぎるはずのその場所で私は見たくないものを見てしまった。忘れかけていた何かを私は見てしまったようだった。一度目を閉じてみたけれど、やっぱりそれだった。

　新しくできたばかりのその店は、この界隈では珍しくない普通の居酒屋だった。いや、若者ばかりがくる飲み屋、といったほうがいいかもしれない。はじめて仕事場の仲間と今日、この店にきた。以前来たことのある誰かが、食べ物は安いし飲み物の種類は多いし、それにカッコイイ店員がいる、とはしゃいでいたのでここに決めたのだ。

　最初店にはいったときは彼女のいう「カッコイイ店員」はおらず、がっかりしていた。少したってみんなにも酔いがまわってきた頃、その子がこっそりといった。
「あの人なんです。私がカッコイイってゆってた人」
　小さい声でみんなは囁きあって品定めをしていた。私はいつもならその会話に入るところだが、今日は少し疲れていたのでぼーっと杏露酒を飲んでいた。
「あっ、来ましたよっ」
　料理が来たのだと思って私は顔を上げた。目の前に、グラスをふたつ持った店員がいて、私の視線とぶつかった。店員は一瞬止まったように見えた。

「カシスオレンジのお客様」
　口からするりとすべり落ちたその声は私にとっていちばん聞きたくない声だった。しかも、もう何年も耳にすることのなかった声だ。
　友人が店員からグラスを受け取ると、私は息ができなくなった。何よこんなこと、別に今の私にとってはなんともないことじゃない。
　いいきかせたくてもできなかった。

「こちらのグラスお下げしてもよろしいですか？」
　私にわざわざ聞いてこなくてもいいのにそういうことをいうのは昔から変わっていないのね。
「はい」
　たったその二文字をいうだけのためにきっと私は耳まで赤くなっている。酒が入っているのが幸いだ。そうでなかったらみんなに突っ込まれていることだろう。
　彼は私のグラスを持ち上げた。私は彼から目が離せなかった。

「ねっねっ、結構カッコイイでしょ？」
　最初に彼を見つけた子が得意げにいう。
「だよねえー。なかなかいいじゃない」
　彼の背中さえ目で追う自分自身が嫌だった。どうしてそんなふうに感じてしまったのだろう。もう会わないと思っていたのに。こんなときに会うなんて。
「だめですよおナホさんったら。私が最初に見つけたんですからねえっ」
　私の視線が彼に向いているのが見つかったらしく、みんなに睨まれる。そんなわけないじゃない。
「ナホさんは彼氏いるんですから、私に今回は譲ってくださいね」
　冗談めかしていう。きっと彼女は冗談じゃない。きっと告白するところまで至るだろう。そういう子だ。別にそれでいい。彼と私は何の関係もないのだから。

　置かれたばかりのグラスはまだ彼のぬくもりが残っていそうで私の心を痛めつけるには充分すぎた。グラスを持つこともできず、ただじっとしているだけでも汗が流れてきた。先程私の前で動いていた長い指先がちらついてどうしようもなかった。こんなにもまだ覚えている。

　騒いでいる同僚たちの声が聞こえなくなるくらい、私は彼のことを考えていた。
「どうしたんですか。気分悪いんですか？　今日もトバしてましたもんねえ。ナホさんったら飲みすぎじゃないですか？」
　会話に参加しない私に気を使って後輩が声をかけてくる。酔ったわけではないけど、身体の中がぐるぐるまわって気分が悪かった。熱い。
「そうかもしれないわねえ」
　ごまかしついでに席をたつ。このままだったら、口から心臓が飛びでそうだもの。ちょっと頭を冷やしにいこうと、トイレにいくことにした。席からトイレは遠くて、角を曲がったところにあった。

「どうしましたお客様」
　角を曲がったときに安心した私がばかだった。空の皿を持った彼が私の目の前を通り過ぎて行こうとしていた。
「何も・・・。ちょっと酔っただけよ」
　もうごまかすことなんかできない。
「気分が悪いなら冷たいおしぼりでもだしましょうか」
　おどけて彼がいう。そうえば以前、飲みすぎて介抱してくれていた彼の服に吐いたことがあったっけ。
「いらないわ。平気よ」
　私はトイレのドアを開けて、入る。彼はがちゃがちゃと皿の重なる音をたてて厨房のほうに消えて行った。

　鏡の中の私はみっともないくらいに赤い顔をしていた。何もいわなくても顔が語っちゃってる。恥ずかしすぎる。
　両手を洗面台の上に置いて、息を吐く。ゆっくり息を吐くと、それが震えていることに気がついた。深呼吸さえできなくなっている。
「大丈夫か」
　ほっとしていたのもつかの間、トイレのドアが開いた。なんであんたが覗いてるのよ。そうか。ここは両用か。洗面台の向こうにさらに個室がある。だからここには誰でも入ってこられるようになっているのだ。
「大丈夫よ。仕事しなさいよ」
「やっぱほっとけないでしょ。お客サンだし」
「客？」
　そこで私は危うく口を滑らせるところだった。客じゃないわ。昔の彼女でしょう、って。今はそんなこと、何も関係のないことなのに。

　彼女ではなかった。彼には彼女がいた。でもお互い想っていた。コドモすぎて素直になれなかったのだ。
　中学時代まではそういう関係だった。大学時代に一度偶然会った。そのときに私は彼のことをもう好きではなかった。そう思いこんでいた。だけど本当は好きだったのだ。カッコ悪いくらいに。そうして一緒に飲んだ。ふたりで。翌朝、私は隣で眠っている彼に小さくくちづけをして部屋を出た。
　もう会わないようにと。

　それなのにまた。こんなところで再会してしまうなんて。
「オレとお前は、いつだってすれ違ってばっかりだな」
　苦笑する彼の、左手の薬指に、私は光るものを見つけた。そして私も、同じだった。お互いが大切なものをもっている。それなのに私たちはまた会ってしまったんだ。
「きっと一生すれ違ってばっかりよ」
　あきらめるためにはそのコトバを口に出すしかない。私たちはもう別の道を選んだのだから。
　幼かった頃のわたしなんてもうとっくにいなくなっている。彼もまた、昔の彼ではない。お互いが昔のことばかり考えている。同じ道を歩くことはもうないのに。少しだけ期待して。

　私は彼を見た。変わらないその今にも泣いてしまいそうな小さい瞳。会うたびに彼は私との身長差が生まれてゆく。私たちの距離のように。視線は遠くなってゆく。
　以前私がしたように、彼は私にちいさくくちづけする。それを受けとめられる余裕はないけれど、もうこれで最後にしないといけない。でもまた会ったら、きっとこんなふうになってしまうのだろう。そうしてオトナになってゆくのかもしれない。
　一生つきつづけないといけない嘘はコドモだった私たちには大きすぎた。大きくなった今でもやっぱり重い。

　もういちど私たちはくちづけをする。ちいさく。挨拶にもならないくらい。コトバでは伝わらなかった昔を悔しがるちいさなオトナたち。
「じゃあね」
　そうして私たちは、またオトナのふりをする。
　嘘をつくことをやめないままに。

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