| （前編） 上野駅広小路口の前でタクシーを降りた。 ギターケースは右手に下げている。目いっぱい詰め込んだ旅行鞄は肩に吊るしている。革のハーフコートとマフラーは、着ずに丸めて腋の下に挟んでいた。そんな恰好でターミナル駅の改札に向かうこの僕は、北へ旅立つ夜行列車の客だった。 列車の発車時間にはまだ充分余裕があった。重い荷物で肩と背中がずっしり沈みながら、それでも僕の足はさっさと歩を速めて進んだ。コンコースをだらだら歩いている赤ら顔の酔客サラリーマンたちを追い抜き、駆け足に近い感じで改札をすり抜けた僕は、駅構内の奥の方、長距離列車用の１５番線ホームへ向かった。そのホームには、青森行きのブルートレイン「あけぼの」がもう既に入線しているはずだ――― 北へ向かう寝台特急を選んだのには理由など無かった。ただ一晩のうちに自分をどこか遠い所へ連れて行ってくれる乗り物ならば何でもよかった。他に夜行長距離バスでもよかったのだが、できれば誰とも顔を合わせずにいられて、また、体を横にして休める場所が欲しかった。 僕は切符を確認し、「あけぼの」Ｂ寝台車のデッキに乗り込んだ。洗面所の前を通る時、鏡に映った自分自身の顔を見た。土気色になって淀んだ暗い顔の中で、真っ赤に充血した目が光っていた。 僕は狭い通路を荷物を持ったまま横歩きし、自分の寝台席を探した。車内の一番奥の方、２段寝台の下段に切符の番号の席があった。その寝台席には既に白いシーツが掛けられ、毛布と浴衣がきちんと畳んで置かれていた。 僕は荷物のギターケースと旅行鞄を寝台席の上に置いた。コートとマフラーは壁にあるハンガーに掛けた。そうしてやっとシーツの上に腰を下ろした。今まで体中に張り詰めていた重い大きいものが、深い溜息となって一気に吐き出された。 ふと、自分を見つめる誰かの視線に気付いた。その視線は、向かい合った寝台の上段席から投げ掛けられていた。 顔を上げた僕に、その視線の主は声を掛けてきた。 「よう。色男の兄ちゃん。ずいぶんいい匂いの香水プンプンさせてるっちゃ」 赤ら顔をした５０年配の男だった。タオルで鉢巻をして、浴衣の上にドカジャンを羽織っている。節くれだった無骨な手にはカップ酒が握られていた。 僕はすぐに顔を伏せた。そっけなく答えた。 「―――別に。ただの安いオーデコロンですよ」 「ははあん。若い奴はそんな風に都会でしっかり洒落っ気が身に付いてなあ。だけんど、そんな色男が久しぶりに故郷さ帰えろうっちゅうのに、そんな不景気な顔で溜息なんかついてちゃダメだっぺよ」 「―――別に。疲れてたから溜息が出ただけです。それに僕は故郷に帰るんじゃありません。―――これから東北の方へちょっと旅行に出かけようと思ってるだけの人間です」 僕の声は重く深く沈んでいた。 「あれれ、何だよう。そうなんけ。そういや兄ちゃん、でけえ荷物持ってたな。ありゃあ楽器か何かの入れ物だべか。そうか。兄ちゃん、もしかして、流しで全国を回ってる歌い手の人か何かだなや。これから、秋田か弘前あたりへでもドサ回りに行こうっちゅう寸法だべ」 そのホロ酔いおじさんの罪の無い純朴さは、今の僕にはすごく鬱陶しいものだった。 僕は努めて不機嫌に声を出した。 「いえ。違います。僕は―――ただの学生です」 「あれあれ。そうなんけ。いやよう、ずいぶんお洒落な二枚目が、こんなボロっちい夜汽車に一人で乗って来たからよう。そんで、やたら暗い顔してっからよう。おらまた、てっきりよう―――」 てっきり、東京での生活に行き詰まって田舎に帰る負け犬野郎か、はたまた地方回りの売れない演歌歌手にでも見えたのだろうか。 まあでも、ある意味、それは的を得ているのかもしれないと僕は思った。人生という日々の戦いに負けて、夜の闇に紛れてこそこそ逃げて行く敗残者なのさと、僕は口の中で呟き、ドカジャンおじさんに軽く頭を下げた。 「―――すみません。もう寝ますんで。おやすみなさい」 列車の揺れは想像以上にきつかった。激しい振動に合わせ、狭い寝台の上で体が大きくローリングする。時折下から突き上げて来るような揺れもあり、その度に腰と背中が宙にバウンドした。 列車の走行音も耳障りだった。車体のあちこちで、断続的に金属音や接触音が聞こえて来る。車輌や設備が古いせいなのだろうが、それにしても、夜行列車の寝台がこんなにも不快なものだとは思わなかった。 僕自身が神経質になり過ぎているのかもしれなかった。実際、僕以外、他の乗客たちはぐっすり寝入っている。特にカーテンの向こう、向かい合わせの寝台席の上段を占めた人物などは、さっきから派手な鼾声を上げている。それは最初はまだ我慢できる愛嬌のあるものだったが、だんだんと図々しく過激になって来ていた。 「―――おっさん、いい加減にしてくれよ。眠れないよ」 何度も右に左に寝返りを打ちながら、僕の心はどんどんささくれ立って行った。肉体の方は既に限界近くまで疲れ切っている。背中や腰、手足の節々から鈍痛が走った。全身の毛穴から滲み出た冷たい汗が、シーツと毛布をぐっしょりと濡らした。 僕はうつ伏せになり、枕を頭に被った。その上から両手を組んだ。目を瞑ってはいるものの、瞼の裏にあるのは闇ではなかった。暗黒の画面に現れて来るのは、さまざまな自分自身の記憶のパノラマだった――― 列車はどこかの駅に停車した。そのまま長い間動かずにいる。深夜で乗り降りする人も無く、しんと静まり返っている。 僕の高ぶった心の中に、ようやく、遅い夜の帳が降りて来た。よかった。これで少しは眠れるかもしれない。そう安心した矢先、突然、不意をついて、大きな炸裂音が僕の鼓膜を突き刺さした。カーテンの向こう、ドカジャンおじさんの鼻が大噴火をしたのだった。 僕は眠るのを諦めて、洗面所に出て煙草を喫う事にした。寝台から降りて、スリッパの音を立てないようにして通路に出る。そっと静かに洗面所のドアを開けた。 僕はギョッとした。そこに先客がいた。それも二人、いや、正確に表現すると、それは一人だけだったのだが―― 「す、すみません」 僕は頭を下げ、その場を通り過ぎようとした。見たくないと思っているつもりなのに、どうしても目の方がそちらを向いてしまった。足が停まってしまった。 洗面台の鏡の前に男がいた。小太りの小柄な５０歳くらいの男で、形の悪いでこぼこの頭を中途半端な丸刈り坊主にしている。黒いダボッとしたズボンを細いサスペンダーで吊っていて、襟の汚れた皺くちゃのワイシャツを着ている。その喉元には安っぽい縞柄のネクタイをぶら下げていた。 男はずいぶん時代遅れに見える太い角張った黒ぶち眼鏡をしていた。その奥にある細い目が、鏡の中で僕を捕えた。それはニッと吊り上がり、振り向いて、ニヤニヤッと素の顔を僕に見せつけた。 「ふふ。これでございますか？」 男は言った。容姿に似合わず、やたら甲高い馬鹿丁寧な声だった。 「これが何なのか。私が今これに何をしているのか。何でそんな事をしているのか。お宅様は驚きながらも、内心それを知りたいのでございましょう」 僕が黙っているので、彼はもう一度同じ事を繰り返した。 「お宅様は知りたいのでございましょう」 「―――べ、別に」 僕はどぎまぎしながらも平静を装おうとした。だが、どうしても、それから視線を逸らす事ができなかった。それ―――眼鏡の坊主頭の男の傍らで、洗面台の流しの上に腰掛けて背中を丸めているそれ。それは明らかに――― 「そう、これは、人形です。別名、ラブドール。巷ではダッチワイフと呼ばれる代物でございますね」 男はさも愉快でたまらないといった風に言った。実際、眼鏡の中の細い目をやたら嬉しそうに吊り上げ、まるでこの僕を挑発して、慇懃無礼な言葉でからかっているかのようであった。 僕はちょっと腹が立ち、それを顔に出してしまった。男の吊り上がった目が急に角度を下げた。 「いや、失礼いたしました。初対面の方に、いきなり無礼極まりない態度を取ってしまったようでございます。実に誠に申し訳ございません」 男は打って変わって真面目な顔になり、ペコペコ頭を下げ始めた。 僕は黙っていた。黙って、男の面妖な風体と、すぐ傍らにいるそれ以上に異様なそれとを交互に見つめていた。それ―――小柄な美少女を模したダッチワイフの人形は、無表情の中にも、何故か憂いを込めた濡れた瞳を光らせていた。 「よくできてますでしょう」 男が言った。僕の心を読んだようだった。 「これは、眼球の表面に常に水分を含ませているんです。だから目が生きている。他の類似品には絶対真似の出来ない、私だけのオリジナル特許でございます」 男はそう言い、人形の顔を撫でた。気のせいか人形の視線が少し揺らいだ。 僕の驚きを、男はすぐに察した。 「いえ。気のせいではありません。この目は動くんです。耳たぶに埋め込まれたセンサーが相手の音声を感知して、このように相手にウェットアイを合わせるのです。そう、まるで限りなく生きた人間に近いくらいに」 「そ、そんな、まさか―――」 思わず洩らした僕の声を捕えて、人形の目が真っ直ぐ僕を見た。瞳の中に、生命を持っているかのような妖しい光があった。僕は息を詰らせてしまった。 「―――目だけじゃない。か、体も、微かに動いている」 僕の震える声を聞いた男は、嬉しそうに自分の眼鏡の弦を撫でた。 「そうなんです。さすがでございますな。いや、お眼が高い。そう、この人形の体はこのように静かに呼吸をするんですよ。正確には機械を使って動かしているんですが。そう、この全身にシームレス加工を施した医療用特殊シリコンの肌の下には、実際に動脈や静脈があって、血が流れているんです」 「―――そんな馬鹿な」 「いや、失礼失礼。表現が正確ではありませんでした。動脈や静脈に似たゴムパイプが体内に張り巡らされていて。その中を熱い血潮に真似た温水が流れているんです」 男はそう言い、人形の右手を取った。 「触ってごらんなさいませ」 僕は男に言われるままにその人形の右手を取った。限りなく本物に近い柔らかい感触と、人肌のぬくもりが感じられた。 「これはですね。人形の体内にあるポンプ、つまり人工心臓でございますな。そのポンプがサーモヒーターと連動して、体内の動脈と静脈のパイプに摂氏３７度前後の温水を供給しているのです。だから、人間の体温に近い暖かみと、実際の心臓の鼓動に近い息吹を感じさせるのです。これもまた、他の追随を許さないこの私ならではのオリジナル特許でございます」 男はにっこりと笑った。酒に酔っているのでも冗談を言っているのでもないらしく、その大きな黒ぶち眼鏡の下の笑顔には、何の恥じらいもためらいも無かった。 「この、実に血色の良い肌をご覧下さいませ。この華奢でありながら確かな存在感を持つ妖艶な肢体を抱きすくめれば、まさに天にも昇る無限の悦びを感じる事ができます。この愛くるしい顔の中で芳醇な香りを醸し出す美しい唇に触れれば、それが神以外の者の手で造られたなどとは、もはや到底信じる事はできません」 男の口上には何やら大仰な台詞が混じって来た。 「さあ、そして、一番肝心な部分。そう、一番肝心な部分でございます。何はさておいても。そう、お宅様も一番興味がございましょう。女性の体で一番神秘的なその部分でございます。その、神だけに創造する事が許された禁断のゾーンが、このドールではいったいどのようになっているのか。いや、百聞は一見にしかず。まずは実物をご覧になっていただきましょう」 黒ぶち眼鏡の坊主頭の男は、人形の下半身に手をやった。人形の着ている服は、流行の女子高生のブレザースーツらしかった。アイロンプリーツ入りの短いスカートを捲り上げると、何故かそこには、大人の女性用の大胆な黒いシースルーのショーツが現れた。男はそれに手を掛けた。 「ご覧下さいまし。この神秘のゾーンを」 男の妖しい指先が、人形の穿いたショーツをずり下げ、現れ出た小さな黒い茂みをかきわけて行った。 「ここには、本物の人間の女性から頂戴した恥毛を、実際に植毛して使用しております」 そんな大真面目に言う男の声が、現実離れしたどこか遠い異世界の言語みたいに、僕には聞こえて来た。 「―――そして、これです。これをご覧下さいませ。これこそまさに、私の永年の研究の集大成、究極の人工性器、プレミアムホールなのでございます」 男の人差し指が示したそこ、人形の両腿の付け根の部分には、綺麗な整った形をした女性の『割れ目』が鎮座していた。いわゆるまだ『初々しい』状態の代物だ。鮮やかなピンク色の部分を囲むようにして、楕円形の枠線と段差がついている。おそらくそこの部分だけ分離して取り外しができるという工夫なのだろう。 「まさにその通りでございます。そう、これはパーツを暫時取り替えできるようになっています。いろいろな男性側の様々な要望に応えられるよう、何種類ものバリエーションを用意してあります。時には恥じらいの処女のように。そして、時には大胆な娼婦のように。ちなみにこれは、初体験を終えて間もない、まだ発展途上段階の女性の性器という設定を、数々の好事家様のご要望に応えて製作したパーツです。どうです。実際に触ってご覧になって下さいましな」 黒ぶち眼鏡の坊主頭の男は、僕の手を強引に引っ張り、人形のその部分に僕の人差し指と中指を触れさせた。 「どうです。この感触。まさに本物を超えた出色の出来でございましょう」 僕はすぐに手を引っ込めた。気持ち悪いというより、指先がすいと吸い込まれるようなその不思議な感触に驚いてしまったからだ。 「そう。驚かれるのも無理ありません。これこそ、究極の芸術品なのでございます。この人工性器―――プレミアムホールは、医療用シリコンをベースに、高性能の特製の軟質樹脂ラテックスを塗布してあります。挿入後の中での動きは実に変幻自在です。衛生面でも、使用後には取り外して、コンタクトレンズのように、簡単に素早く煮沸消毒で完全殺菌できるようになっております」 男は、いたく真剣な顔で、僕に大真面目な説明を続けるのだった。 ちょうどその時、洗面所に誰かがやって来る気配がした。スリッパをパタパタさせる音が聞こえて来た。 男は慌てて人形のスカートを下ろした。両手で抱き上げて、くるりと後ろ向きにした。人形の少女は洗面台に上半身を突っ伏した状態になった。 ドアを開け、洗面所に寝惚けまなこの浴衣姿の爺さんが入って来た。 坊主男が声のトーンを変え、物言わぬ少女の背中を優しく擦りだした。 「―――ほらほら、大丈夫か。高校生にもなって車酔いなんかして、本当にだらしがないんだから。よしよし。ほら、全部吐いてしまいな。よしよし、よしよし―――」 それを見た浴衣姿の爺さんはチッと舌打ちした。口の中でブツブツ何か言った。そのままくるりと踵を返し、スリッパを派手に音立てて行ってしまった。 危機を脱した黒ぶち眼鏡の坊主男は、僕の顔を見てニッと笑った。 「いや、危ない危ない。これが車掌なんかに見つかったら大事ですからな。実際に過去に何回か見つかりそうになって冷や汗をかいた事があります。私がこの洗面所の場所でさっきからこの子に何をしていたかと申しますと、この子の体内に補給するべき温水の加減を行なっていたのでございます。いや、実を言うと、この子の体内のサーモヒーターの具合がデリケートで、程よい温かみのある肌の感触を保つにはいつも苦労するのです」 男は人形の着ている服をたくし上げ、裸になった背中を僕に見せた。ブラジャーのホックのあたり、肩甲骨の下の目立たない所に、小さな給水口のようなハッチが開いていた。 「―――ここから温水を入れます。この子は、今までの安いビニール製の風船人形と違って、特殊ポリマーで出来た人工筋肉の上にシリコンとラテックスを多用しています。空気の代わりに、人工血管のパイプに通した水で、体全体を支えています。水が生命の源なのです。もっとも、本物の人間の体だって、その体積の殆どは水分で出来ているそうです。その点から考えると、この子は実際に生きている人間により近い存在なのかもしれません。なお、この子の心臓ポンプやサーモヒーター、各種センサーを動かすバッテリーは、単一電池を毎日８個使っています。ただそれだけです。それがこの子の一日の『食費・生活費』というわけです。実に手間の掛からない、親孝行な娘なのでございます」 坊主男は、自分が手塩に掛けて創りあげたというその物言わぬラブドールを、『この子』『娘』と何度も呼んだ。 僕は僕で、何度も喉の奥で唾を飲み込んでいた。 「そ、それで―――」 それまで黙っていた僕は、つっかえながらも言葉を押し出した。「―――あなたは、そのような変な物を何でこの僕に見せるんです。―――そのような事をそんな馬鹿丁寧に長々と説明して、いったい何だというんです。―――そのような、普通の人が聞いたら赤面するようなあなたの自慢話を、何でこの僕がベラベラ聞かされなくちゃならないんですか」 一気に言ってやった。もっと早いうちに言っておけばよかったと少し後悔していた。 坊主男は黒ぶち眼鏡の奥の目を丸くし、大げさに手を広げた。 「いえいえ、そんな。自慢話だなんてとんでもない。お気に触ったのでしたら深くお詫び申し上げます。でも、私はけっして怪しい偏執狂でもなければ、悪意を持った変質者でも何でもございません。私のこのテンションの高い喋り方は、私の業というか、まあつまり、言わば私のセールストークのひとつなのです」 「セールス？」 「はい。このラブドールは私の大切な商売道具なのです。私はこの人形を使って、日々の生計を立てている商売人なのです。前置きが長くなってしまい誠に申し訳ありませんが、要するに、私はこの洗面所の場所を借りて、今夜の恰好のお客様が現れて下さるのを、今か今かとじっとお待ち申し上げていたのでございます」 「客？」 「はい。お客様です。そして、私の眼鏡に曇りがなければ、お宅様は私どもの今夜の最高のお客様になっていただけるものと確信しております」 「―――それは、つまり、この人形を僕に買えと、そう言うわけですか」 「いえいえ。そんな事は申し上げません。この人形自体をご購入いただくのは甚だ困難です。現時点ではこの特製ラブドールはこの世にこの一体しかありませんし、開発費だけでこれまで何百万もの大金を投じていますから。これを特定個人に現物でお譲りするのは私としても不本意です。ですから、つまり、私はこの子を時間単位でお客様にお貸しして、その素晴らしさをぜひご堪能いただきたいと、こう申し上げているのでございます」 「貸す？ ダッチワイフを？」 「はい。つまり、私は生身の女性そっくりの精巧なラブドールを、こうして夜行列車の車内でこっそりお客様にレンタルする。つまり早い話、女衒・ポン引き男なのでございます」 「こいつは驚いた。というか呆れた。そんな商売の人がこの世にいるなんて」 「人生は摩訶不思議です。奥が深い。世間にはさまざまな人生がございます。あなたはこんな私の事を奇人、変人と思われるかもしれませんが、私が今申し上げた、このようなラブドールを使った擬似性行為―――実際には単なる自慰行為なのですが、こういう所謂バーチャルセックスというものには、実際に、かなりの需要があるのです。例えば、世の中にはさまざまな理由があって結婚できなかったり、恋人を持つ事ができない人々が多々いらっしゃいます。そのような人々のしごく日常的な健康的な性欲を安全に処理し、日々の精神の安らぎと平和を提供しようという発想が、こういった高性能のラブドールの開発研究を急がせました。また、不特定の女性との安易な性交渉は病理的にも危険性をはらみ、また、若い１０代の少女との性交渉が事実上法律で禁止されてしまった今日、安全で手軽で廉価で、しかも妊娠も性病も官憲による摘発も何の心配も後腐れもないという仮想現実世界での性行為に、密かな期待が集まって来たのです。実際、まだ日陰の身ではありますが、幾つかの専門メーカーがこういった商品の開発にしのぎを削っています。私はそのような既存の製作会社や組織に属さず、市井に住む一発明家として、日々単独で研究と開発に没頭して参りました。そして、ついにこの究極のラブドールを完成させたのでございます」 黒ぶち眼鏡の坊主頭の男は胸を張って言った。だが、その後すぐ、自嘲の笑いを顔に浮かべた。 「―――だが、悲しいかな、そんな私には、栄光の発明王の名と引き換えに、膨大な額の借金が残ってしまいました。無情にも、私は家も財産も家族も全て奪われてしまいました。私の作った世界最高水準のラブドールは、そのあまりに高額な制作費が敬遠され、特許ライセンスは取れたものの、一般商品化は見送られてしまいました。あげく、世間からは変人のマッドサイエンティスト扱いまでされて、とうとう私は一般常識社会からスポイルされてしまいました。 ―――そうして、私は自らの手で生み出したこの可愛い娘をひとり連れて、こうして放浪の毎日を送る羽目になってしまいました。我が子の類いまれな美貌と素晴らしい肉体に助けられ、私は、こうしてあてのない旅を続けながら、細々と日々の糧を得ているという悲しい人生なのでございます」 言ってから、その自慢の、類いまれな美貌の娘とやらの肩を抱いた。 「法的にはこれは売春ではありません。当然の如く児童福祉法にも青少年保護条例にも何にも違反しないわけです。―――どうです。この美しい私の娘との夢のひと時を、ぜひお試しになってみませんか？ 場所は、向こうの車輌にある私のＡ個室寝台を確保してあります。料金はショートの２時間で５０００円。泊りの場合は同じ料金にプラスＡ個室寝台料金分をご負担頂くという設定になっております。いかがでしょうか。もし、料金にご不満という事でしたら、もう少し勉強させていただきます。どうでしょう。ぜひ、ぜひ、何卒、いかがなものでしょう」 男の声が哀願調になって来た。恐らく、この時間まで彼らには一人の客もつかなかったのに違いない。客がつかなければ、男の持つ切符代や寝台料金は持ち出しの赤字になってしまうのだろう。 僕は息を大きく吸い込んだ。 「―――馬鹿らしい。所詮はダッチワイフじゃないですか。わざわざそんな大金出してまで、ビニールで出来た汚い風船の女を抱こうなんて、冗談じゃない。そんな寂しい変態野郎と一緒にされたんじゃたまらない―――」 吐き出したのはその言葉ではなかった。ぐっと飲み込んだ言葉を溜息に変えて、僕はズボンの尻ポケットから財布を取り出した。 僕は黒ぶち眼鏡の坊主頭の男からＡ個室寝台の切符とカードキイを受け取った。代りに僕のＢ寝台の切符を彼に渡した。 僕は、そんな怪しげな世界最高のラブドールとやらよりも、正直な所、他人の鼾に邪魔されずにゆっくり体を伸ばして熟睡ができる、その広い個室寝台のベッドの方に心が動いたのだった。 男から交換してもらったＡ寝台はなかなか快適な個室だった。狭いながらも、個人のプライバシーがきちんと守られる。人が溜息をついているのを見咎めるお節介人間もいなければ、他人の安眠を妨げる無神経な馬鹿もいない。 僕は個室に備え付けサービスの浴衣に着替えた。部屋の隅には、一緒に引っ越しさせた僕の荷物のギターケースと旅行鞄がある。 僕はベッドに横になった。ベッドは幅が広くて快適だった。枕も毛布も、さっきまでのＢ寝台の物とは違うグレードの高い物を使用しているようだ。 僕はやっと目を閉じて心を落ち着ける事ができた。やっと今日一日の恐ろしい呪縛から開放されるのだ。そう念じた僕の心に、静かに闇が迫って来た――― ―――だが、どうしても、あと一歩という所で、僕の意識はその静かな闇から引き戻されてしまうのだった。目を堅く瞑り、寝返りをうち、何も考えないようにして頭の中を無にしてみるのだが、それでも全然効果がなかった。 僕は仕方なく、瞼を開けた。ぼんやりした薄暗い視野の片隅に、ひとり佇む少女の姿を見た。 僕は、あっと叫び声をあげてしまった。すぐに跳ね起きて、震える胸を抑えた。乱れた息を必死の思いで整える。 その少女は、憂いを込めた目で、そんな僕をじっと見ていた。生命も言葉も意思も持たないはずの顔が、何故か微笑を浮かべていた。 「―――ダ、ダッチワイフのくせに」 僕は立ち上がり、物言わぬ微笑の人形に手を振り上げた。その手が止まった。 少女は悲しい顔をしていた。一瞬のうちに表情が変わっていた。いや、そう見えたのは錯覚で、もともと顔かたちは固定されていて、そのような芸当をできる構造ではないのだ。それはつまり、僕の方の心の中の揺れや乱れが、そういったものをそういう風に見させてしまったという事なのだ。 「―――よく見ると、そういえば確かに―――沙耶香に似ていると言えない事もない―――」 僕は振り上げた手を静かに伸ばし、人形の少女の髪に触れてみた。さらさらに見える長いストレートヘアーには、思春期の少女特有の中途半端な弾力というものがしっかり感じられた。 小ぶりの顔の中の可憐な唇に指を触れてみた。そこには生き物に似た感触と温もりをはっきりと感じた。僕は思わず目を閉じた。顔を伏せてしまった。もう一方の手で自分の胸を抑え、しばらくの間そのまま動かずにいた。 やがて、顔を上げた僕は、人形の肩を抱き、そっと引き寄せた。骨格も筋肉も言葉も意思も持たないラブドールの体は、泳ぐように体を揺らせて、僕の胸に飛び込んで来た。 「―――さ、沙耶香、―――ごめん。ごめんよ」 僕の頬を知らずうちに涙が滑り落ちて行った。そして、とめどもなく次から次へとあふれ出て来た。 僕は泣きながら人形を抱き上げ、ベッドへ連れて行った。彼女をこのまま一人で寂しく寝かせるわけには行かなかった。 僕はベッドに横になり、黒ぶち眼鏡の男から預かったその物言わぬ少女を優しく抱き締めた。そして今度こそ、ようやく深い安心の眠りに落ちて行くのだった――― 「―――あふぅ、ああぅ、んんっ、あああああっ―――」 女の声が一段と激しさを増した。 僕は、顔から汗の雫をだらだら垂らし、はあはあ息を吐きながら、必死に腰を動かしていた。 「―――ああっ、んんん。はうっ、い、いいわ。ああううっ、来て。来て。早く。ううんんんっ―――」 乱れに乱れまくる女に翻弄され、僕の体は熱くなり、そして、淡々と果てて行った。 「―――ううん―――」 女が不満げな声を出した。 「―――若いのね。ダメよ。もっともっと引っ張ってくれなきゃ。まあでも、幸雄チャン、いつもすぐにまた元気になってくれるからいいけど」 女はそう言ってうふふと笑い、男の僕の髪を撫でた。僕はぐったりした自分の体をそんな女の胸の上に預けていた。女の胸にある二つの乳房は、さっきまでは激しく大きく波打っていたのに、今ではだらりと醜く垂れ下がっている。 「すみません。ちょっと水を飲んで来ます」 僕は立ち上がり、ベッドから降りた。テーブルの上のティッシュを何枚も取り、だらしなく下を向いた自分のペニスを拭いた。干からびたソーセージ状態のコンドームを引き抜き、ティッシュの中に丸め込んだ。 台所に行き、生ゴミの袋の奥の方にその丸めたティッシュを突っ込むと、僕は傍らの冷蔵庫を開けた。 冷蔵庫の奥の方に強精ドリンクが何本も隠してあった。それを一本取り出し、一気に飲み干す。 流しの中には、先ほどまで僕が使っていた灰皿が無造作に置かれたままだった。僕は灰皿の中からシケモクを一本拾い、ガスレンジのスイッチを回して火を点けた。 一服をし、呼吸を整え、寝室に戻ると、ベッドの上で女が手招きをしていた。 「待ってたわ。さあ、いらっしゃい。ダメよ。幸雄チャン、若いんだから。逃げたりしたら承知しないわよ―――」 「ねえ、幸雄チャン。沙耶香の事なんだけど」 「お嬢さんがどうかしましたか？」 「最近、ちょっと落ち込んでるみたいなの」 「どうしたんです？ 失恋でもしたんですか」 「まさか。馬鹿ね。あの子まだ中一よ。まだまだ子供なんだから。そうじゃなくて、きっと学校で何か嫌な事があったんじゃないかと思うの」 「いじめですか？」 「わからない。でも、学校に問い合わせるのも何だし。あの学校って、名門有名校を名乗っているわりには、結構ルーズなところがあるって聞いてるわ。高いお金取ってるくせにね。それでね、あたし、ちょっと心配なの」 「オレに、私にどうしろと―――」 「田口幸雄センセはただ勉強を教えてくれればいいの。あの子に。ウチの専属の家庭教師としてね。でも、何か変わった所があの子の態度に見えたら、すぐにあたしに教えて欲しいの。どんな事でも。それって、ぜひともお願いできるかしら」 「―――わかりました」 僕は、午後は三田にある自分の大学の講義に出て、夕方はサークルでやってるロックバンドの方に顔を出した。僕の担当はリズムセクションで、基本はベースなのだが、時にはドラムも任される。 この日は、メンバー全員が揃っていた。僕はギターケースから愛用のベースを取り出し、チューニングを始めた。 「ねえねえ、グッチー」 リードボーカルをやっている響子が、僕の傍にやって来て耳打ちした。『グッチー』というのは、バンドのメンバーが僕を呼ぶ愛称だ。 「―――今夜、いつもの所で、ね」 「いや、ごめん。今夜はバイトなんだ」 「なにそれ。前もそんな事言ってたじゃん。ずるいわよ、それ」 「ごめん。申し訳ない。このバイトは実益が非常に高いやつだからさ。どうしても外せないんだ。」 響子とは、二年前からかなり濃い付き合いをしている。バンドのリードボーカルとして、僕とのコンビネーションもぴったりだ。将来は結婚してもいいと考えているくらいだ。 「そうか。そういえば、グッチー、こないだから家庭教師始めたんだっけね。天才ベーシストの田口幸雄クンも、とうとう『守り』に入っちゃったわけね。まあ、４年生じゃそれもしょうがないっか。ねえ、グッチー、教員採用試験の最終面接って何日だったっけか？」 「うん。来月の３日だよ」 「受かるといいね」 「まあね。教師って柄じゃないけどな、オレって」 僕は照れ笑いをした。僕の大学は一応名前だけは有名だが、僕みたいな文学部の男子学生で、それも４年間音楽にばかりうつつを抜かして成績のあまり芳しくない学生は、せいぜい中学か高校の教師くらいにしか進路の道がなかった。 「ねえねえ、グッチー。もしも最終的に受からなかったら、これからどうするつもり？」 「面接に落ちたらかい。まあ、そうだな。バイトで食いつなぎながら、本気でこっちの方のプロを目指してみるかな。オレってさ、自分で言うのも何だけど、ほら、面がいいじゃんか。美男子系やビジュアル系路線でやって行けるのかも」 「うふ。やめた方がいい。グッチーの顔って、どっちかって言うと、渋い演歌系のホスト系のノリだもん」 「つまり、彫りが深いってか。そうか。だから、オバサンにやたらご指名されるというわけかな。いや参ったな」 「あらあ、まさか本当にホストのバイトやってるの？ グッチーって」 「えっ？ いや、嘘、嘘。悪い冗談だって」 僕は慌ててかぶりを振った。 響子というれっきとした恋人がいながら、僕は、バイトで家庭教師をやっている中学生の母親と、こっそり秘密の関係を続けていた。その母親の女性は、（僕は彼女の事を『等々力マダム』などと呼んでいた）旦那が単身赴任で海外へ行っており、一人娘の沙耶香という名の中学一年生の女の子と二人で暮らしていた。 僕は、家庭教師斡旋所から紹介された世田谷区の山の手、等々力という高級住宅街にあるその邸宅に通っているうち、いつの間にか禁断の扉を開けてしまった。というより、向こうから誘われるままにふらふらっという感じで、越えてはならない一線を踏み外してしまった。 昼間、その等々力のマダムとまさに『昼下がりの情事』を楽しんだ後、僕は三田にある自分の大学へ行き、そして、夜になると、またその等々力の邸宅に戻って、学校から帰って来た娘の中学生の家庭教師をする。毎月貰う月謝の額は相場より遥かにはずんでくれた。その中には、家庭教師のギャラ以外の『特別お手当て』も入っていたはずだ。僕は、寂しい熟女の山の手有閑マダムの、体のいいダッチハズバンドになってしまったというわけだ。 「―――ごめんな。響子。バイトは８時からなんだ。今日は時間が無いから、オレ、ちょっと気合い入れてやるよ」 僕は煙草を取り出し、ちょっとキザにジッポのライターを鳴らした。銜え煙草を決めながら、愛用の５弦ベースをボスボスと鳴らした。 （後編） 午後８時、僕が火曜と木曜の週２日にやっているアルバイト、家庭教師の時間が始まった。世田谷区等々力にあるその瀟洒な邸宅の２階、海外長期出張中の旦那さんの書斎だという８畳の部屋で、いつものように、娘の中学一年生の沙耶香への個人授業が始まった。 沙耶香は、青山にあるミッション系大学の中等部へ通う１３歳の少女だった。ぱっちりした瞳と長い睫、形のいい鼻と小ぶりの口元は、母親よりも父親似と言われているらしく、長いさらさらの髪はもちろん何の色にも染まってはいなかった。 彼女は人気アニメのワンポイントキャラ入りのＧジャンを着て、ブランド物のデニムパンツを履いていた。背は高くなく、１３歳の少女のごく平均的な体格で、ちょっと痩せぎすという以外は、世間の標準よりも少しハイクラスといった程度の、どこにでもいるような可愛い女子中学生の一人に過ぎなかった。 沙耶香は頭のいいお茶目なお転婆さんだった。特に歴史や古文が大好きで、文学部の国文学専攻の僕にとっては、適当な小噺やくだらない雑学などをケラケラと笑って聞いてくれる、ありがたい素直な教え子でもあった。 それでも、僕が彼女の性格の全てを把握しているかというと、あまり自信は持てなかった。個人授業を始めてもう３ヶ月以上経つが、僕は自分の個人指導の生徒との間にしっかり距離を置いている。僕は沙耶香の母親であるあのマダムとの不謹慎な関係もあるので、なるべく一人娘のこの幼い少女の心中には立ち入らないよう心がけていたつもりだった。たった一人の担任生徒である沙耶香には、ありきたりの勉強方法だけ指示してあげて、後は、兄代わりのハンサムで格好いい大学生として、思春期の少女の適当な話相手にでもなってあげればいいと、そんな単純に割り切っていたつもりだったのだ。 今日の沙耶香は、最初のうちはやはり元気がなく、口数も少なかった。母親のマダムに頼まれた例の一件の事もあるので、僕は頃合いをみて、それとなく聞いてみた。 「沙耶香ちゃん、どう？ もう中学生になって半年だけど、仲のいい友達いっぱい出来たかな？」 少女のつぶらな瞳が視線を下げた。 「あの青山の学校の制服って、すっごいお洒落で、よくストリート系のファッション雑誌に取り上げられたりしてるよね。男の子も女の子もすごくモテるんだって？」 「別に」 「沙耶香ちゃんも人気がすごいんじゃないかな？」 「全然」 「学校終わったら、渋谷に出て遊んじゃったりするわけ？」 「全然。渋谷ってサイテーの所だから、行かない」 「そうか。真面目なんだ。偉いな」 「偉くない。学校じゃ皆なに嫌われてる」 「えっ！ そうなの。ううん。―――そ、そうか、何か知らないけど、すごいシリアスな学園ドラマを展開してるって感じなのかな」 僕の情けない付け焼刃の熱血教師ぶりに対し、少女はあからさまに口元を歪めた。 「さぶー」 「よ、よかったらさ、オレ、先生が相談に乗ってあげようか。ほら、先生って、まだ免許も貰ってないアマチュアの素人教師だけどね、一応これでも将来は金八先生を目指してるもんだからさ」 少女は顔を上げた。大きな瞳が僕の目をまっすぐに見た。 「―――先生、今日の昼間、ウチに来てたでしょ？」 突然の突拍子のない問いに、僕は慌ててしまった。 「えっ？ 今日？ いや、全然。今日は朝から大学に行ってて、そのまままっすぐここへ来たんだよ」 「嘘」 「いや、嘘じゃないよ」 僕は心の動揺を見透かされないよう、沙耶香の目をまっすぐに見詰めた。 「嘘だもん」 「いや、嘘じゃないって」 僕は不用意に、顔に笑みまで載せてしまった。 「嘘、嘘ばっかり。田口先生の嘘つき」 「いや、そんな、嘘なんかついてないったら」 僕は必死に首を振った。 「嘘つき。だって、証拠だってあるんだから」 「えっ、証拠？」 「うん。見せちゃうんだから。これなんだから」 沙耶香がＧジャンの右のポケットから取り出したのは、小さなビニール袋に入れられた煙草の吸殻だった。 「これ、先生がたまに吸ってる煙草と同じ物。さっき、台所の今日のゴミ袋の中に入っているのを、沙耶香が見つけたんだもん」 「そ、そんなの、先週の授業に来た時に僕が吸ってたやつが、そのまま残ってたんだと思うよ。お母さんがゴミ出しで忘れてたんじゃないのかな」 僕は、まだその時点ではシラを切り通せるものと思い込んでいた。 「―――じゃあ、こっちは？」 沙耶香が左のポケットから別のものを取り出した。それを見て、僕は一瞬心臓が停まりそうになった。 沙耶香が手に持っているもの、それはビニール袋に入れられたくしゃくしゃのティッシュのゴミだった。ゴミの中には、うっすらとピンク色の物体が隠されていた。 「―――これ、先生のでしょ」 沙耶香がきっぱり言い放った。僕は眩暈がして来た。 「そ、そんなもの、そんなもの持ってちゃダメだよ」 「沙耶香、知ってるもん。もう子供じゃないから。知ってるもん。これが何か知ってるもん」 「さ、沙耶香ちゃん。ダメだよ。そんなもの、君の歳では知らなくたっていいものだよ」 「知ってるもん。沙耶香、知ってるもん」 「ダメだ。知らなくていいッ！」 僕は思わず大声を出し、沙耶香の手を掴んだ。１３歳の少女の顔が風船のように膨らみ、一気に萎んだ。 「―――ご、ごめんよ。沙耶香ちゃん。でも、本当にそんなものは知らなくていいんだ。君は知らない方がいいんだ」 少女の顔に、色々な感情が浮かんでは消えたようだ。彼女は目を伏せた。 「―――田口先生、やっぱりママの事、好きなんだ」 「い、いや。だから、そうじゃなくて、つまり―――」 普段偉そうな事を言いながら、僕はこのような不測の事態を切り抜けるすべを何も知らなかった。 「先生、じゃあ、沙耶香の事は？ ―――嫌いなんだ？」 「き、嫌いじゃないよ。―――好きだよ。大好きだよ」 僕は、１３歳の少女のペースにすっかり嵌ってしまった。 「そう、そうなの！ わあ、うれしい！ 良かった。それじゃ、先生、いつもママにしてるのと同じ事、この沙耶香にもして―――」 「ば、馬鹿な事言っちゃいけない！」 僕は、もはやドツボに落ちかけていた。「そ、そんな馬鹿な事―――」 「そう、じゃ、パパに言いつけちゃう。アメリカにいるパパに、全部これから電話でバラしちゃうから―――」 そんな沙耶香の声が、遥か遠くの方から聞こえて来た。耳の奥、頭の中が真空になって行くような気がした。 「あ、あのね。沙耶香ちゃん―――」 それでも、自分の声だけははっきりと自分の耳に響く。 「大人をからかっちゃいけないんだよ。オレ、先生はもう２３歳の立派な大人なんだから」 「―――沙耶香、田口先生の事、好き！ 最初に会った時からずっと好き。クラスのバカな男の子なんか、誰も田口先生には適わない。その辺のアイドルタレントなんかよりずっとずっと好き。沙耶香、田口先生の事を大っ好き！」 「わ、判った。そんな大きな声出さないで」 「先生、キスして―――」 「ええっ！？」 「キスして。沙耶香、一番大切な物は、大好きな田口先生に最初にあげると心に決めたの」 「だ、駄目だよ、そんなの―――」 「パパに言い付けちゃう。ママにも言っちゃうから」 「わ、分かった―――」 僕は沙耶香の肩を優しく抱いた。そっと引き寄せた。少女の、シャンプーっぽい甘ったるい匂いが鼻についた。 沙耶香は大きな目をぱっちり見開いていた。僕はその目に唇を寄せた。好奇心と怯えが混在していた瞳が、慌てて長い睫の下に隠れた。 僕は少女の閉じられた瞼に優しく口づけをし、そして、鼻の頭にチュッとやり、そして、―――形のいい可憐な花のような小さな唇にそっと触れた。 少女の体が石のように固まった。そして、一瞬のうちに全ての力が抜けた。 何だかんだ言って、まだ１３歳の幼い少女だった。何と、沙耶香は僕の腕の中で失神してしまったのだ。僕はハッと我に返り、自分が犯した罪の大きさに恐れおののくのだった。 「それじゃ、お大事に。大切な勉強時間を無駄にしてしまって、大変申し訳ありませんでした。」 僕は玄関で靴を履きながら、白々しく頭を下げた。等々力マダムが目を丸くした。 「あらあら、そんなそんな。こちらこそごめんなさいね。こんな大騒動になっちゃって。あの子、もう相当神経が参っていたみたいなの。やっぱり学校でいじめに遭っているみたいなの。さっき、沙耶香の友達のお母さんに電話で聞いてみたんだけど、やっぱりどうもそんな感じみたいだわ。明日あたり、ちょっと学校へ電話してみて、あたしの方でも確かな所を問いただしてみるわね。田口センセの方こそ、今日は本当にごめんなさいね」 山の手の有閑マダムは、しゃあしゃあと屈託の無い笑顔で僕を見送ってくれた。それでも、ドアを閉める間際、くねくね体をしならせ、そっと耳打ちをして来た。「―――うふ、それより、幸雄チャン。今度また、ね」 どうやら、彼女は、自分の娘の今回の失神の本当の理由に気付いていないようだった。僕はホッと一安心した。 それでも、夜道を歩きながら、僕は実に暗澹たる気持ちになって来た。あの家でのバイトはそろそろ辞めるべきだろうかと考えた。あの母娘に付き合っていては、それこそ身心ともにイカれてしまいそうだ。一歩間違うと、このまま奈落の底まで転げ落ちて行きそうな気がする。その前に、適当な所でうまく手を打って逃げた方が、安全で得策だろうと思った。 そんな風に考える一方で、あの火遊び好きの淫乱人妻がくれる超破格の美味しいお手当ても、また実に魅力的なのだった。 僕はそんな意地汚い計算を働かせながら、頭の中であれこれ悩みつつ、家路を急ぐのだった。 武蔵小山にある自宅の学生マンションに帰ると、玄関の三和土に響子の靴があった。響子には部屋の合鍵を渡してある。彼女はいつもこうして僕の留守中にやって来て、僕のために部屋の掃除や夕食なんかを作ってくれるという、とってもステディで気の置ける相手なのだ。 「ねえねえ、グッチー、今度の三連休さ、愛媛の宇和島へ行ってみない？」 響子が言った。ベッドの上でシーツをくしゃくしゃに乱し、僕の二の腕の上に気持ちよさそうに顔を載せていた。 「宇和島か。魚も女も美味そうな所だな。きっと、響子みたいなスタイルのいいピチピチしたのがいっぱい獲れるんだろうな」 僕は僕で、響子のつんと上を向いた乳首をさっきから指で弄んでいた。 「もう、相変わらずお馬鹿さんね。いいかげんにしないと、そのうち後ろからブスッて刺されちゃうわよぉ」 「へへへっ、こっちは逆に後ろからブスブスやってあげるけどな。まあそれより、さっきのその話って、君の親父さんに一度会っておけっていう事なんだろう。早い話が」 「うん。そう。一度きちんと挨拶しておいて欲しいわけ。ウチの親父サンに。グッチーだって、それって、けっして悪い話じゃないと思うの。ほら、ウチの父親って、あの辺の教育委員会にはやたら顔が利く実力者だからさ。」 響子は身をよじりながら応えた。響子の父親は、聞くところによると、愛媛県の県会議員をやっているという話だった。思うに、僕の事を守りに入っているだの何だの言って茶化した彼女だが、こうして聞くと、彼女の方が、よりずっと現実的で保守的な人生設計を考えているみたいだ。 「わかった。考えとくよ」 僕はそう言って、響子の耳たぶを口で噛んだ。 「―――ああん、もう。グッチーったら、色男の優男のくせに、すっごいタフなんだから」 「男は優しくてタフでなくちゃ。それともうひとつ、ガッチリしたたかに生きて行かなきゃね」 そして、僕たちはまたひとつに溶けて行った。 次の週の火曜日の午後、僕は大学の講義をサボって、渋谷から東急東横線の急行電車に乗った。 僕は自由が丘で降り、山の手の住宅街を急いだ。今朝、僕の携帯のメールに、こんな気になる緊急メッセージが入っていたのだ。 『―――等々力商事です。田口幸雄様に大切なお話があります。今日の２時に必ずお越しください―――』 等々力商事というのは、沙耶香の母親であるあの山の手有閑マダムの、僕と二人だけに通じる秘密の連絡用ハンドルネームだった。普段、マダムとのメールでのやり取りは、万一響子に読まれたりしたらまずいので避けているのだが、今日は珍しく緊急の呼び出しが掛かってしまった。 「この前の一件で、まさか悪い事態になってしまったんじゃないだろうな」 僕はいつもの強気はどこへやら、かなりナーバスになっていた。実は僕は、昨日、東京都の中学校教員採用試験の合格通知を受け取っていた。こんな時に問題を起こして、せっかくの明るい未来をフイにするほど、僕は馬鹿じゃない。 用賀のインターに近い等々力の高台にあるその邸宅に赴いた僕は、少し気持ちを引き締め、門柱のボタンを押した。セキュリティー暗証番号を入力し、門扉が開くと、広い庭を通って、大きな玄関にたどり着いた。 玄関のブザーボタンを押す前に、中からドアが開けられた。ドアを開けてくれたのは、沙耶香だった。沙耶香は今日はピンクのＴシャツにジーンズのショートパンツというラフな服装をしていた。 「あれ？ 沙耶香ちゃん、今日は学校は？」 「お休みなの。どうぞ、先生、入って」 「お母さんは？」 「中にいるわ。どうぞ」 「お邪魔します」 僕は玄関に入り、靴を脱いだ。広いお屋敷の中は、実に静かだった。家の主人である等々力マダムは、それでもなかなか顔を出して来なかった。 「お母さんは？」 僕はまた聞いてみた。沙耶香は答えなかった。黙ってさっさと僕を促し、２階へ続く階段を上がって行った。 僕も仕方なく、黙ってついて行った。いつも家庭教師の時間に勉強部屋になる例の書斎の部屋の前を通り過ぎ、沙耶香が自分の個人部屋にしているという奥の洋室の前まで来て、前を行く沙耶香が振り向いた。 「先生、どうぞ。ここでママが待ってるから」 「―――判った」 僕は首を傾げながらもドアを開け、部屋に入った。沙耶香が後に続いた。 部屋は８畳のいかにも子供の勉強部屋という造りだったが、狭い室内のどこにもマダムの姿はなかった。 「お、奥さん？」 不審に思って振り返った僕の胸に、沙耶香の華奢な体が飛び込んで来た。 「な、何の真似？ 沙耶香ちゃん」 「先生、好き―――」 「ダメだよ。そんなの。沙耶香ちゃん」 「先生、―――この前、最後まで沙耶香にきちんとやってくれなかった事、今、ここでやって」 「な、何言ってんだよ！ ダメだよ、そんな。お母さんに見られたらまずいだろう。ほら、離れて」 「ママはいないの。今日は用事があって出かけてるの。だから今は家の中には沙耶香一人しかいないの」 「えっ？ だって、オレの携帯のメールには、君のお母さんから呼び出しがあったんだけど」 「あれ、沙耶香がやったの。ママの携帯を持ち出して、沙耶香がやったの。ママは頭悪いから、携帯の使い方詳しくないから。だから全部沙耶香にバレちゃってるの。田口先生への連絡方法まで全部。沙耶香、何でも全部知ってるの。沙耶香、どうしても田口先生と二人になりたかったの」 僕は唖然とした。１３歳の少女の拙い計略に、２３歳の男がこんなにも簡単にあっさり嵌るとは――― 「い、いけないよ。沙耶香ちゃん。悪いけど、そういう事だったら帰るよ。オレだって怒るよ」 「いや。帰らないで。怒らないで」 少女は悲しい顔をした。沙耶香の顔はよく見ると、うっすらと化粧の装いがされていた。拙いながらも薄くルージュまで引いている。母親のマダムの大胆な奔放さには適わないものの、そこにいるのは、充分男の気持ちをくすぐる、妖しいフェロモンを放つ一人の女の姿だった。 「さ、沙耶香ちゃん。そんなにまでして―――」 「沙耶香、ママよりも綺麗になりたいの。ママよりもずっとずっと先生に好かれたいの」 その言葉が、僕の琴線に触れた。ぐらりと来た。心と体の芯が大きく揺れた。 今、僕の前には、人間としてけっして越えてはならない最低限のモラルが置かれていた。それを踏み越えてしまったら、自分は最低最悪の鬼畜の地獄道に堕ちてしまうのではないか。しかし、かといって、それを越えずにいつまでもぐずぐずしていたら、目の前のこの純粋な乙女の心を逆に傷付けてしまいそうな気もする――― 僕は沙耶香の肩にそっと手をやった。少女の美しい瞳をみつめる。 「沙耶香ちゃん、君は充分に美しくて素敵な女性だよ」 長い髪を撫でてあげた。「目を瞑ってごらん」 少女は素直に目を閉じた。僕は顔を寄せ、沙耶香の唇にそっと唇を重ねた。少女の体が凍りついた。でも、すぐにそれは温かい柔らかみを取り戻した。 僕は、相手の口の奥に舌を差し入れたりなどしなかった。ただ、柔らかい１３歳の少女の唇の感触だけを確かめていた。 僕は沙耶香の体を抱き上げた。子供用の小ぶりのベッドの上に連れて行った。沙耶香は身を硬くしていたが、けっして僕の手に抗ったりはしなかった。 僕はベッドの上に彼女を寝かせ、またも優しくキスをしてあげた。キスをしながら、沙耶香の首から肩、肩から胸にと、手を滑らして行った。 少女の体がビクンと震えた。僕は右手で彼女の髪を撫であげた。 「―――大丈夫、沙耶香ちゃん。先生、優しくしてあげるから」 僕は沙耶香のＴシャツの裾をたくし上げた。真っ白い人形のような上半身が露になった。沙耶香は最初からブラジャーなど身に付けてはいなかった。 まだ発展途上の段階といった小さな胸の膨らみが、堅く結んだ両手の下で震えていた。僕はその手を取った。 「―――綺麗だよ。沙耶香ちゃん。ずっとずっと綺麗だよ」 僕は、その小さな胸の隆起に掌を当てた。軽く動かした。 沙耶香の口から音が漏れた。それが唸り声なのか溜息なのか、それとも何かの言葉なのか、僕には判らなかった。 僕は沙耶香のショートパンツに手を掛けた。ゆっくりと、時間を掛けてそれを下ろして行った。その間沙耶香は顔を手で覆い、いやいやをするようにしきりに首を振っていた。 沙耶香の可愛らしい子供用の下着姿を見た瞬間、不覚にも、僕の下半身は勢い良く奮い立ってしまった。僕の理性は、僕の心の中に住むもう一人の自分を、この人非人の外道野郎と強く罵った。そのもう一人の僕が屹立させた僕自身のペニスは、僕のコーデュロイのズボンに不規則な三角錐の膨らみを作らせた。 「―――沙耶香ちゃん、本当にいいの、このオレなんかで」 今だ理性を必死に保とうという本来の僕の問いに、少女はこくりと頷いた。もう一人の鬼畜外道と化した僕の方は、既にシャツを脱ぎ始め、ズボンのベルトを外した。 そうして、お互いに生まれた時のままの姿になった１３歳の中学生と２３歳の大学生の僕は、ベッドの上に並んで横になり、向き合った。 美しい未開発の少女の体は、しきりに小刻みに震えていた。僕は、彼女の母親である中年マダムの熟れ切った肉体や、自分の恋人である響子の完成された肢体を見る時とまったく違う感情を、自分自身の胸の内に感じた。 「―――沙耶香ちゃん、もし、嫌だったら、嫌だとはっきり言ってね」 僕は沙耶香の下半身に手を伸ばした。そこには、うっすらとした可愛らしい茂みが出来ていた。僕はそこにそっと静かに指を這わせた。 少女の体が石になった。そんな彼女に、僕はやさしく唇を重ねてあげた。 「―――大丈夫だよ。そんな硬くならないで。沙耶香ちゃん」 安心させてあげるため、少女の目と鼻の頭に交互にキスをしてあげた。髪の生え際にもキスをしてあげた。こういう場合、どうやら一番効果的なのは、男の優しい言葉とキスのようだった。 僕の指先が、未開の地、少女のバージンの証しに触れた。響子や淫乱マダムのそれとは明らかに違うものだった。僕は、彼女らにいつもしているようなやたら過激な展開には持って行かないよう注意した。例え鬼畜外道に堕ちたとしても、僕は未開の地で土足で花を踏みにじるような悪魔の犯罪者にはなりたくなかった。 沙耶香はそれでも、体を硬くしたまま、歯を食いしばっていた。それを解きほぐすのは、やはり僕の唇の役目だった。僕の優しいキスは、少女の凝り固まった処女の殻を少しづつ少しづつ開いて行った。 「―――本当にいいんだね。それじゃ、力を抜いて」 僕は沙耶香の華奢な体を、僕の体全体で抱き締めた。避妊具は持ち合わせていなかったが、大切なロストバージンに汚らわしいゴム器具を装着するほど、僕は無粋な男ではなかった。 大丈夫、直前に外出しにして安全に決めてあげるさと心に言い聞かせ、僕は沙耶香の美しいバージンエリアに自分の堅いペニスの先を当てた。 「い、痛い！」 沙耶香が顔を顰めた。当然のリアクションだろうが、もはや本能に支配された僕は歯止めが効かなかった。 「痛い、痛い、痛い。ひいいん。ひええええん―――」 沙耶香が泣き声をあげた。それを聞き、ようやく僕の心の奥で、最低限の理性が僕の本能にストップをかけた。欲望の噴出にブレーキをかけた。沙耶香の不安定な処女膜の入り口付近でためらっていた僕のペニスは、その皮膜を打ち破る事なく、後ろに引き返した。 僕は急いで自分の右手を伸ばして己のペニスを握り締めた。間髪を入れず、僕の掌の中に、僕自身の熱い激情が伝わって来た。 「―――ごめんね。ごめん。沙耶香ちゃん、ごめんね」 僕は、涙をぽろぽろ流している少女の顔にひたすらキスを繰り返した。沙耶香が要望したもの全てにはとうとう応えられなかったが、しかし、僕は彼女の無垢な心は傷付けていないはずだと勝手に解釈していた。 「―――素敵だったよ。沙耶香ちゃん、本当に素敵だったよ」 そんな言葉を口から吐きながら、僕は、悪魔に魂を売った男とは、きっと、こんな自分のような人間なのだろうと思った。 その週の木曜日の夜、僕は自宅のマンションにいた。 木曜日といえば、その日は本来なら、いつものように世田谷区等々力の例の邸宅と三田の大学を往復し、そして、この時間には再度等々力の方へ赴かなければならないはずだったが、僕は朝から自分の部屋の中でじっとしていた。僕は、事前に等々力のマダムに電話して適当な言い訳を繕って、本日の『昼のお勤め』も夜の沙耶香への授業の方も、両方ともキャンセルさせてもらっていた。それでも、何もしないで寝転がっているのも情けないので、一応、来月提出する卒論のチェックなどをして一日を過ごしていた。 と、携帯の呼び出し音が鳴った。手に取った僕の耳に聞こえて来たのは、同じバンド仲間でサイドギターをやっているベチ―――苫米地という奴の声だった。 「お、おい！ グッチー、田口、いるかッ？」 「なんだ、ベチじゃないか。よう。今日はバンドの練習に付き合えなくて悪かったな」 「ば、馬鹿野郎！ 練習どころじゃねえや。お前、そんな所で何やってんだよ！ お前、聞いてないのかよ？ 響子が死んじゃったっての」 「えっ？ 何だって。おい、お前何言ってんだよ」 「何言ってるじゃねえよ！ 本当に死んじゃったんだよ！ そう、あの響子がだよ。ついさっき、電車に飛び込んじゃって。今警察から連絡があったんだ」 「嘘だ！ そ、そんな馬鹿な―――」 「嘘じゃないって！ 今、俺は品川警察署に向かっている。品川警察署だ。グッチー、お前もすぐに来いッ！」 電話は切れた。僕はそこに立ち尽くし、携帯電話の黒い画面を呆然とみつめるしかなかった。 警察の身元確認や事情聴取に丸一晩を費やし、響子の愛媛県宇和島の実家への連絡などを済ませて、僕が自宅マンションに帰ったのは、翌日の朝１０時を回っていた。一睡も出来ずボロボロに疲れ果てた僕は、マンションの部屋のドアを開けたとたん、そのまま床の上に座り込んでしまった。 警察の安置所で見せられた響子の遺体は、とても遺体と呼べるような物ではなかった。バラバラに轢断された肉片を人の形にまとめ、それを無造作に包帯でぐるぐる巻きにしただけの代物だった。それが響子本人だと判るような顔の造作も輪郭も何も残ってなかった。ただ、左手の手首だけは原型を留めて残っていて、そこには、僕がこれまでベッドの上で何度も握り合った事のある見慣れた白い細い指と、手相占いなどで何度も見た事のある掌と、そして、僕が以前に確かに彼女に贈った事のあるイミテーションリングが光っていた。 響子は昨日の午後５時半頃、バンドの練習から帰る途中、品川の駅の京浜東北線のホームで、進入して来た電車の前に飛び込むように落ちたのだという。その時間帯は夕刻のラッシュ時で、駅のホームは鈴なりの乗客でいっぱいだった。ただし、突然の出来事で、誰も線路上に転落した彼女を救い上げる事は出来なかったのだという。 僕は、突如として我が身に降りかかった大きな不幸と災難に、何も冷静に考える事もできず、何も行動する事もできず、悲しみの涙を流す事すら忘れ、ただ冷たい床の上で背中を丸めて震えているしかなかった。 チャイムが鳴った。誰かが僕を訊ねて来たようだった。しかし、僕は立ち上がる力も声を出す気力も、何も残って無かった。 ロックを掛け忘れたドアを開け、誰かが黙って入って来た。 視線の先に、ブルーのハイソックスを履いた足が見えた。 顔を上げると、―――そこには一人の少女が立っていた。 「―――沙耶香ちゃん―――」 「うふ。また学校サボっちゃった。田口先生のマンション、初めて来ちゃった」 沙耶香は、紺のセーターに白いブラウスシャツ、リュック風の通学鞄を背中に下げていた。 「―――何で、何でここに―――」 「沙耶香、先生をちょっと慰めてあげようと思って」 「慰めるって、何でそんな―――」 「だって、田口先生、付き合ってた女の人が死んじゃったんでしょ」 「あ、ああ―――」 「電車に轢かれちゃったんでしょ」 「ああ―――」 「知ってるのよ。沙耶香、何でも全部。だってそれって、沙耶香が自分でやったんだもん」 「えっ！？」 僕は耳を疑った。思わず聞き直してしまった。 「今何て言ったの？」 「沙耶香がやったの。沙耶香が殺しちゃったの。あの女の人の事。あの女の人をずーっと追いかけてって、後ろからついて行って、駅のホームであの人が電車を待ってる時、ちょうどいい所だったんで、沙耶香が背中からどんと押してやったの」 その言い方は実に淡々として、普段の会話をする時とまるで変わらなかった。 「な、何だって！ 何で、何でそんな、そんな―――」 僕は全身に悪寒が走った。 「ふふふ。さあ、これですっきりしたわ。ねえ、先生、沙耶香がせっかく来たんだからさ、この前の続きを早くしようよ。だって、沙耶香、まだ田口先生に、沙耶香の一番大切なものをきちんと捧げてなかったみたいなんだもん―――」 １３歳の少女は言った。その顔は、ぞっとするほど冷たくて美しい微笑を浮かべていた。 「ねえ、先生、早く―――」 僕はもう何も聞いてはいなかった。ふらふらと立ち上がった僕は、目の前に佇む笑顔の少女の肩に、そっと手を伸ばした。 ガクンという衝撃音で僕は目を覚ました。部屋の中は暗くなかった。厚地のカーテンを通して、一日の始まりの光が漏れていた。列車の車輪とレールが刻むジョイント音に混じって、先頭を行く電機機関車の、むせび泣くような警笛の音が聞こえて来た。 僕は、相変わらず小刻みに揺れるベッドの上に起き上がった。 不思議な事に、ベッドの上にも、部屋の中にも、この僕一人しかいなかった。昨夜、一緒にこのＡ寝台の個室に入って、僕と一緒に眠りについていたはずのあの美しい少女の姿が、どこにも見えなかった。 僕は重い頭を振り振り、立ち上がった。窓の近くの小さなテーブルの上に、一枚のメモがあるのをみつけた。 メモにはこう書かれていた。 『―――昨夜は私の娘、ラブドールをご利用いただきまして、誠にありがとうございました。お目覚めまでご一緒したいのですが、誠に勝手ながら、私どもは途中の弘前にて下車させていただきます。と言いますのも、永年の常連の贔屓筋のお客様がここで私どもをお待ちになっているためです。そのため、やむを得ず、お客様にお断りなく、事前に退出させていただきました。誠に不躾けながら、お客様がお休みの最中に合鍵にて部屋にお邪魔させていただき、娘のドールを回収させていただきました。もちろん、お客様の持ち物には何ひとつ手は触れてはおりません。それはぜひ、ご安心くださいませ。 はなはだ僭越ではございますが、また、どこかの地でお会いする機会がありましたら、その時はぜひ私どもに気軽にお声を掛けて下さいませ。私と娘の二人、心よりお待ち申し上げております。それでは、文面にてはなはだ失礼ながら、これにてお暇させていただきます。お客様もくれぐれもご自愛くださいませ。ご機嫌よう。―――人形と旅する男より』 僕はメモを小さく畳んで、壁のハンガーに掛けたハーフコートのポケットに入れた。入れ違いに煙草とジッポのライターを取り出し、ゆっくりと火を点けた。 一服したあと、僕はそのまましばらく考え、そして、部屋の隅に置いてあったギターケースに手を伸ばした。 フックを外し、ケースの蓋を開ける。中から白い煙が立ち昇った。ケースの中には、ドライアイスを細かく砕いて目一杯詰め込んであった。 僕はその中から、五つに離れた細長い包みを取り出した。ビニール袋に幾重にも包まれ、ガムテープできつく封印されたそれら。まだ臭いはそんなにひどくない――― そう、そのギターケースから出て来たビニール包みの中身は、人間の手足と胴体だった。僕の自宅マンションの風呂場でバラバラに切断し、冷蔵庫で半日掛けて固く凍らせたそれらは、昨日の午前１０時までは、確かに実際に生きていた人間のものだった。 僕はさらに旅行鞄を取り出した。目一杯膨らんだそれのファスナーを開けると、やはり白いドライアイスの煙が中から噴き出した。 鞄の中から僕が取り出したのは、ビニール袋とガムテープでぐるぐる巻きにした、丸いボール状のものだった。それもまた、昨日の朝までは、１３歳の中学一年生の、妖しさの中にまだあどけなさが残る少女の顔を載せていたものだったのだ。 僕は、早くも腐敗臭を周りに洩らし始めたそれらを、またひとつひとつ丁寧に元の場所に戻し始めた。まさに大切な人形を箱に仕舞うようにして――― そして、僕は浴衣を脱いで上半身裸になった。旅行鞄の底にあったオーデコロンの瓶を取り出し、勢い良くそれを全身に振り掛けた。昨夜はＢ寝台の席でドカジャンおじさんに指摘されてしまったが、周りの人に何と嫌味を言われようと、どんなに顔を顰められようと、僕は、僕の全身に染み付いて消えない死臭と血の匂いを隠すために、それをまるまる一瓶ぐらい使い果たす必要があったのだ。 車内アナウンスが、終点の青森到着が近い事を告げた。カーテンをめくって窓の外を見ると、一面の白い世界が覆っていた。どうやら外は吹雪になっているようだった。暖かい室内の空調で気付かなかったが、外界と接する窓ガラスの表面には、確かな強い冷気が張り付いていた。僕は身震いし、急いで身づくろいを始めた。 そうして、列車は、一面の銀世界の中に佇む青森駅に進入していった。雪まみれのホームに滑り込み、ガクンとつんのめるように停止した後、僕は数少ない乗客たちと一緒に、足を踏ん張りながら、寝台特急の凍てついたデッキを降りて行った。 僕は氷結したホームの滑る足元に注意しながら、僕の大切な荷物をしっかり両手に抱えた。きっと今頃、あの黒ぶち眼鏡の坊主頭の男も、このように自分の大切な人形を入れた鞄か何かを抱えて、吹雪の中で苦労している事だろう。 あの男はそれでも自分なりに幸せな人生なのかもしれない。自慢のダッチワイフの娘を連れて、これからも全国あちこちへ旅を続けて行くのだろうか。たとえそれが不条理と呼ばれる人生であっても、彼らには次に向かう場所があり、彼らを待っている人がいる。それに対し、この僕はこれからどこへ行くのか、この先どこへ向かおうとしているのか。―――そんなあてのない旅の行く手には、もしかしたら、もうすぐそこの所で終着駅が待っているのかもしれない――― 沙耶香の、永遠に言葉も意思も失った物言わぬ体を収納したギターケースと旅行鞄は、それでも偽りの生命を持っているかのごとく、ずっしりと重く、僕の肩と背中にのしかかって来た。 「―――人形と旅する男、か」 それは、つまり、この僕の事でもあったんだなと思った。 ―――完。 （この作品は完全なフィクションであり、男川正朗のオリジナル小説です。作品の中に一部、故・江戸川乱歩先生の著作本から拝借したと受け取られるような表現の部分がありますが、これは故・江戸川乱歩先生に敬意を表し、その偉大なる功績を称えんがために行なった行為であり、けっして先生の名を汚す意図で行なったものではありません） 上に戻る 「文芸からす」表紙に戻る |
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