松山宗六は五十二歳で独身で恋をしていた。 宗六は本から目を上げちらりと向かいの席を見た。 オレンジのアスリートスーツに身を包んだ女性がスマホで音楽を楽しんでいる。日に焼けた化粧気のない健康そのものの顔。二十歳前後の女子大生だ。いつも持っているケースには沿線の女子大の名前と「LACROSSE」と書かれていた。 宗六は視線を文庫本に戻し目をしばたたかせた。どこまで読んだか分からなくなっていた。ページを戻りため息をつき本を閉じた。そのまま視線を落とし電車の走行音に聞き入った。もう一度だけ彼女をちらりと見た。 彼女を初めて見たのは二週間前だった。 ほぼ二日に一度は電車内で見かけた。一度だけこっそりガラケーで撮影をした。あわてたせいでピンぼけだったが毎日晩酌しながらガラケーの画面を見ていた。 宗六は小学二年の一学期に転校した。転校してきた彼の面倒を見てくれたのが隣の小学六年の女の子だった。二年から見たら六年はとても大人の女性だった。ほっそりしてよく日に焼けて笑顔が美しい彼女は宗六の天使だった。しかし三年になる前の春休みのよく晴れ上がったある日、彼女は交通事故で亡くなった。そしてあの健康的な笑顔と細長い手足の少女の面影は、しっかりと宗六の心に刻み込まれた。 宗六は女子大生に小学六年生の彼女の面影を見いだしたのだった。 だからといって声を掛けようという気持ちはなかった。さすがに五十男と二十歳の女が結ばれる、まるで池波正太郎の時代小説「剣客商売」のようなファンタジーを夢見るほど呆けてはいなかった。彼女をそっと盗み見るだけで宗六は満足だった。 その幸せは二ヶ月続いた。 ある朝、若い男が彼女の前に立った。車内はそれほど混んではいなかった。別の線からの乗り継ぎの客を待っているからだった。彼女の両隣も空席だった。 男はどこといって特徴のない最近よく聞く草食系風だった。男は彼女の前で手のひらをひらひらさせて注意を引いた。彼女は目をあげた。男がスマホを差し出した。彼女は画面を見た。 「これがどしたの？」 彼女が言った。 「よく撮れてるでしょ？」 「だから？」 「うれしくないの？」 「なんで」 「ゲームのときの君ってほんときれいだね」 「だから？」 「君、ファンをもっと大切にしなきゃ」 「あたしプロじゃないんですけど。それにあんたのこと知らないし」 「これからお互い知り合えばいいじゃん」 「あんたタイプじゃないし」 宗六は二人が知り合いではないことに気付いた。男が男だし、注意しても大丈夫と軽く考え席を立った。ひざが震えていることに本人は気付いていなかった。何より彼女のために役立てると思い、思いが強すぎて彼女の顔色が変わったことにも宗六は気付かなかった。 宗六は男に声を掛けた。 「あ、あ、あ、ああの君」 黙って振り向いた男の手にナイフが握られていた。 宗六の肛門の手前でウンコはなんとかとどまってくれた。だが動けば顔を出すだろう。宗六は右手を後ろに回しかけた。 「おっさんすっこんでろよ」 男がつぶやいた。ようやく周りの人々も事態に気付いた。だがだれ一人声も出さず動きもしなかった。 彼女が動いた。宗六もほかのだれもその動きは見ていなかった。 まず彼女は後ろ向きの男のベルトに指をかけ、それを手前に引きながら自分は席から立ち上がった。男と彼女の位置が入れ替わった。男はナイフを手にしたまま間抜け面で座っていた。 彼女は持っていたケースを男の顔にぶつけた。無慈悲に。男は気絶して席から滑り落ちた。手からナイフが落ちた。彼女はバンダナを取り出しナイフをつまみ上げポケットに入れた。男の左足を両手でつかんで宗六に言った。 「そっちお願いします」 「あ、はい」 宗六は男の足を両手でつかんだ。二人で男を電車の外に運び出した。ホームに頭がゴツンと落ちた。駅員が走ってきた。 「おじさん」 声に振り返った。 「ありがと」 彼女が言った。 「いや」 宗六はうつむいた。 「父、警官なの。おじさんがヤツの気をそらしてくれたから父さんに習った護身術使えた。ありがと。あとは私説明しとくからおじさんもう行って」 「あ、いや」 「いいから」 顔を上げたら目が合った。 「おじさん素敵だった。ほんとありがと」 宗六はお辞儀してそのままトイレを目指した。 その後、宗六が彼女と会うことはなかった。自分の粗相を彼女に見られていたのではと不安になって通勤の時間帯をずらしたからだ。 そのかわり宗六は、隠し撮りした写真をＤＰＥ屋でプリントアウトし、アパートのドアに貼った。毎朝そのピンぼけの彼女に「行ってきます」と声をかけ出かけた。帰ってくると「ただいま」と声を掛けた。ピンぼけの彼女はずっと宗六の人生の支えになってくれた。 終 |
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